尾崎三雄新聞記事
1933年2月18日 | 「戦雲漂ふ熱河・地と人の概観―關内の治乱と離れ満州領千年の平和郷 百萬余の蒙古族 解放を望む久し」『大阪朝日新聞』 |
1935年10月11日 | 「錦旗飜る北海道―尊き開拓者の俤 ヶ将軍の傳記成る」『大阪朝日新聞』 |
1935年8月24日 | 「アフガニスタンへ伸ばす技術の手」『読売新聞』 |
1935年10月20日 | 「世界の名犬 日本に一匹?―奇しき因縁で渡來した アフガニスタン産」『東京朝日新聞』 |
1935年10月21日 | 「遠く呼ぶ親友邦 アフガニスタン王國―留學生とスポーツの親善」出所不明 |
1936年10月10日 | 「無任所大臣―淵源はプロシヤ法制 日本で先例は五回 内閣官制第十篠に規定」『大阪朝日新聞』 |
1936年10月13日 | 「ギリシャからパレスチナへ―貧困、頽廃に悩む橄欖の實る古國 めまぐるしい希臘の政變」『大阪朝日新聞』 |
1936年10月14日 | 「ギリシャからパレスチナへ―新文化の創造に聯邦運動の奔流 アラブ族が各國に亙って」『大阪朝日新聞』 |
1936年10月15日 | 「ギリシャからパレスチナへ―流れ込むユダヤにアラビヤ人の抗争 平和の夢に破れて騒擾の巷に」『大阪朝日新聞』 |
1937年4月19日 | 「危害除けに僧服で 十ケ國をテクる―“神風”コース八ヶ月の旅から 慶大生飄然と歸る」『大阪朝日新聞』 |
1937年6月10日 | 「トプシー婆さんが 日本一七つ兒のお産―アフガン生れお婿さんは二歳」『東京朝日新聞』 |
1937年6月20日 | 「独裁者スターリン―流血に平然たる粗暴の『鋼鉄人』【上】投獄−投獄の半生」『大阪朝日新聞』 |
1937年6月21日 | 「無任所大臣―議会主義下では凋落の傾向に」『大阪朝日新聞』 |
1937年6月21日 | 「独裁者スターリン―宿敵トロツキーと火花の散る闘争【下】“鋼鉄人”の生活断片」『大阪朝日新聞』 |
1937年12月14日 | 「利劍―日本刀のもる智慧」『大阪朝日新聞』 |
1938年4月2日 | 「ニュースを解く―回教徒の怒り 五馬聯盟の反蒋運動」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月3日 | 「中國教徒代表 北京出發、日本へ―東京の回教大會に出席」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月5日 | 「守屋アフガニスタン公使赴任」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月8日 | 「黄金の刀嚴めし アラビヤの王子來朝―東京の回教大會に出席」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月11日 | 「アラビヤの珍客 大臣廻り―意義深き交歓」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月13日 | 「回教聖典に誓ふ『防共』―アラビヤ王子ら四十数カ國代表迎へ 帝都で盛んな禮拜堂開堂式」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月18日 | 「花々しき“世紀の放送”―戦地にマイク据ゑ 大會の實況を故國へ 東京からはアラビヤ王子が“正義日本”を讃ふ聲」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月19日 | 「ヴアガボンド近東通信(2)―トルコはいま鹿鳴館時代 獨立運動の氣魄漸く薄らぐ」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月20日 | 「ヴアガボンド近東通信(3)―十五夜の悲歌」『大阪朝日新聞』 |
1938年5月30日 | 「わが各國大使館に文化“宣傳官”を設く―情報圖書館と呼應して活躍 アフガニスタンに日本大學を創立」『東京日日新聞』 |
1938年6月12日 | 「支那の新生命線(上)―蜿蜒たる曲徑斷崖 國境越せば忽ち悪路」『大阪朝日新聞』 |
1938年6月13日 | 「支那の新生命線(下)―蒋の急壓で工事促進 “建設の犠牲”雲南農民」『大阪朝日新聞』 |
1938年6月15日 | 「國府の落ち行く雲南(上)―援支外力の新接觸點 海抜数千呎の高地」『大阪朝日新聞』 |
1938年6月16日 | 「ヴアガボンド通信(上)―老功・英國の深謀 エヂプトの一切を語る「三つの言葉」」『大阪朝日新聞』 |
1938年6月16日 | 「國府の落ち行く雲南(下)―英佛の利権競争始まる 夢でない!蘭貢・昆明ルート」『大阪朝日新聞』 |
1938年6月17日 | 「ヴアガボンド通信(中)―英國の外交技巧 市場を荒されたエヂプトの日本商品『大阪朝日新聞』 |
1938年6月18日 | 「ヴアガボンド通信(下)―故國の唄を聞く 各國スパイの集散地」『大阪朝日新聞』 |
1938年10月5日 | 「REMAINS OF ANCIENT CITY FOUND――FIRSTBRITISH ARCHAEOLOGICAL EXPEDITION TO AFGHANISTAMN IMPORTANT DISCOVERIES MADE」『The Statesman』 |
1939年3月7日 | 「大陸政策と宗教法案」『東京日日新聞』 |
1939年2月8日 | 「お伽噺の国は和製づくめ」『東京朝日新聞』 |
1939年2月8日 | 「神秘の国の土産話」『東京日日新聞』 |
1939年3月7日 | 「法案修正には應ぜず 回教の“尊重”を言明―宗教團體法案政府解決策」『東京日日新聞』 |
1939年3月8日 | 「政治家と宗教―回教問題 蘇峰生」『東京日日新聞』 |
1939年3月12日 | 「夢のアフガン 尾崎先生のお土産話(上)」『報知新聞』 |
1939年3月15日 | 「夢のアフガン 尾崎先生のお土産話(下)」『報知新聞』 |
1939年4月14日 | 「友邦イラン漲る喜び―世界各國から飛行機で飲物類をどしどし輸送 豪華・偲ばれる盛儀」『大阪毎日新聞』 |
1939年4月14日 | 「イラン國皇太子御結婚晩餐式―カイロで華やかに」『大阪毎日新聞』 |
1939年4月14日 | 「入り乱れる各國勢力―多難の道切開く回教民族 わが翼の使節待つ新興國を語る山本氏」『大阪毎日新聞』 |
1939年4月14日 | 「カラチへ快翔―そよかぜ号アラハバッドで給油」『大阪毎日新聞』 |
1939年4月14日 | 「イラン國喜びの絵姿」『東京日日新聞』 |
1939年4月14日 | 「“そよかぜ”カラチ著―明後日テヘランへ」『東京日日新聞』 |
1939年4月16日 | 「そよかぜ号ゴール寸前―勇躍、テヘランへ向ふ」『大阪毎日新聞』 |
1939年4月26日 | 「近東四國會議とは―バルカン危機に鑑み 保身條約再檢討“獨伊”“英佛”への去就注目」『東京日日新聞』 |
1939年4月28日 | 「英・ソの衰勢を洞察“新興近東”提携へ―今夏テヘランで四國會議を開く獨ソ兩代表土へ」『東京日日新聞』 |
1939年5月6日 | 「ラヂオ―回教を語る 我が文化への影響」『東京日日新聞』 |
1939年5月14日 | 「園藝の恩人を悼む」『東京日日新聞』 |
1939年6月2日 | 「奉祝申込みも一蹴―ソ聯を毛嫌ひするイラン國 奉祝の旅から歸つたえ江口少佐」『東京朝日新聞』 |
1939年11月14日 | 「回教文化論―回教圏展覧会の任務(上) 小林元」『東京日日新聞』 |
1939年(?) | 「對英地中海共同作戦に ソ聯・土くどき落しへ―ユーゴの“離反”狼狽」『東京日日新聞』 |
1939年(?) | 「兩公使信任状捧呈」出所不明 |
1941年1月29日 | 「アフガニスタンから通商使節團來朝―共栄圏、近東へ伸ぶ」出所不明 |
1941年1月31日 | 「アフガニスタンへ答禮使節團派遣 外相言明」『読売新聞』 |
1941年2月1日 | 「敢然、英の侵略を排す―首都で日本品が大持て 尚武の國アフガニスタン」『東京日日新聞』 |
1941年4月4日 | 「砂漠の國の珍客―アフガニスタンから經濟使節團が來朝 きのふ神戸に上陸」『日日新聞』 |
1941年4月5日 | 「きのふ入京 ア國經濟使節團」『朝日新聞』 |
1941年4月5日 | 「使命は貿易親善―アフガニスタン使節團入京」『日日新聞』 |
1941年4月6日 | 「アフガン使節團紹介招待會」『日日新聞』 |
1941年4月7日 | 「アフガン使節團内原見學」『日日新聞』 |
1941年4月8日 | 「アフガン駐箚公使に小林氏」『朝日新聞』 |
1941年4月8日 | 「内原魂を故國に―外國使節團見學の感想 アフガン使節團」『日日新聞』 |
1941年4月9日 | 「ア國使節歓迎園遊會」『朝日新聞』 |
1941年4月9日 | 「アフガン使節歓迎園遊會」『日日新聞』 |
1941年4月22日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(1)―初期測量者の苦心」『朝日新聞』 |
1941年4月24日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(3)―繙く天山の探檢史」『朝日新聞』 |
1941年4月25日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(4)―初征服は歴山大王」『朝日新聞』 |
1941年4月26日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(5)―善人未踏の北崑崙」『朝日新聞』 |
1941年4月29日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(6)―“ソロモン王座”」『朝日新聞』 |
1941年5月1日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(7)―傳説の山“老婆の家”」『朝日新聞』 |
1941年5月2日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(8)―氷河と峠名に面白い名前」『朝日新聞』 |
1941年5月4日 | 「“動く砂漠”と蜃氣桜―イラク軍に地の利の強味」『朝日新聞』 |
1941年5月4日 | 「起上ったイラク―欧亜を結ぶ石油王國」『日日新聞』 |
1941年5月6日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(9)―ストラツチイ氏の功績」『朝日新聞』 |
1941年5月10日 | 「“高原の國”へ行く わが土木技術団−本月中旬六氏アフガニスタンへ」『読売新聞』 |
1941年5月13日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(11)―“裸の山”ナンガ・パァルバット」『朝日新聞』 |
1941年5月13日 | 「アフガン使節お別れ晩餐會」『東京日日新聞』 |
1941年5月14日 | 「各方面の厚意を感謝―アフガン經濟使節團長から挨拶」『朝日新聞』 |
1941年5月14日 | 「ヒマラヤを中心とした山名考(12)―究めにくい三秀峰の語源」『朝日新聞』 |
1941年5月15日 | 「アフガン經濟使節團長に勲章御贈與」『東京日日新聞』 |
1941年11月3日 | 「夢を貫く大計画―東京―伯林を十日間 中亜横断の直通列車」出所不明 |
1941年11月10日 | 「十年前からこの雄圖―『日本の技術なら必ず成功だ……』 提唱者 : 湯本昇氏の確信」出所不明 |
1941年11月11日 | 「中央アジヤ横断鉄道【一】―軌條・車輛の構造 久保田敬一」『東京日日新聞』 |
1941年11月12日 | 「中央アジヤ横断鉄道【二】―天山南路の資源 渡邊哲信」『東京日日新聞』 |
1941年11月13日 | 「中央アジヤ横断鉄道【三】―文化的意義 笠間杲夫」『東京日日新聞』 |
1953年8月3日 | 「アフガニスタン記―現存する“中世期の国”覆面女と祈りの明暮れ」『朝日新聞』 |
1955年5月30日 | 「カラコラム・ヒンズークシ 京大学術探検隊―第1報―秘境の王様が大歓迎 キモを冷やすヒマラヤ山中の難飛行」『朝日新聞』 |
1955年6月19日 | 「カラコラム・ヒンズークシ 京大学術探検隊―第2報―クエッタの収穫 “種無しザクロ”も手に入る 日本にない野生ヨモギ」『朝日新聞』 |
出所不明 | 「欧州戦争と東洋の新情勢―上―東方民族の盛衰へ 前大戦の轍を踏まん」 |
出所不明 | 「欧州戦争と東洋の新情勢―中―英勢力弛緩に乗ず ソ聯、印度進攻の途」 |