Shumei Okawa
 大川周明とイスラム

紹介

大川周明とイスラム 大川周明とイスラム 大川周明とイスラム
     

「大川周明とイスラム」立ち上げまでの経緯

わたし(加藤博)は、民間外交推進協会の月刊FECニュースの「テラス」というコラム(291号、2009年9月1日)に、「なぜイスラム金融なのか」と題する短文を書いた。なぜ日本人はイスラム金融に馴染まないかを、異文化理解の困難さにひっかけて論じたものであった。その直後の2009年9月4日、一通の丁寧な内容の手紙がわたしの元に届いた。カンボジア大使館にお勤めの山本哲朗氏(*)からの手紙であった。それは、自費出版のご著書『コーランの世界』を一部、後日郵送するが、受け取ってもらいたいとの挨拶状であった。 山本氏は先の短文を読まれ、著作をわたしに贈ろうと思ったという。それはそれで名誉なことであるが、この書き出しの後に書かれていた山本氏の自己紹介の文章に、わたしは興味を抱いた。その文章をそのまま引用すると、次のようになる。

小生は、1939年以来、イスラムに引かれ、蒲生禮一先生にペルシャ語を学びました。しかし、ペルシャ語を生かす機会もなく60年が流れました。
「なぜイスラムなのか」自分でも分からず、今までいつの間にか貯った資料で同封いたします「コーランの世界」を自費出版いたしました。

このなかでわたしの目に留まったのは、「1939年以来、イスラムに引かれ、蒲生禮一先生にペルシャ語を学びました」という文章であった。というのも、わたしは、現在、文部科学省「世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業」『アジアのなかの中東:経済と法を中心に』(平成18−22年度)の研究代表を務めているが、その一環として、日本の中東・イスラム地域研究における先達者たちの事績と業績をフォローしたいと考えていたからである。 その際、どうしても避けて通れないのは、戦前・戦中期のイスラム(回教)研究である。この時期のイスラム(回教)研究には、国策的要素が付きまとっている。というか、国策そのものであったであろう。そのため、戦後、それは否定され、現在のイスラム地域研究は、この時期のイスラム(回教)研究との断絶から出発した。

現在、イスラム地域研究は、それなりの活況を呈している。「石油」、「イスラム」が国際政治経済を読み解くキーワードであるところから、ほかの地域研究と比較して、潤沢な資金を享受している。しかし、何かが足りない。ここは、それが何かを論じる場所ではないので、これ以上の議論は控えるが、わたしには、その理由の一つ、それも決定的に重要な理由は、戦後のイスラム地域研究が、戦前・戦中期のイスラム(回教)研究の総括をしていないことにあるのは間違いないように思われる。
先の山本氏の自己紹介文に出てくる、蒲生禮一(1901〜77年)は戦前・戦中期のイスラム(回教)研究を担った一人である。現在まで読み次がれている『イスラーム(回教)』(岩波新書、1958年)の著者である。

わたしも含めて、われわれの世代で、かれと直接に接することのなかったイスラム地域研究者にとって、蒲生禮一は東京外国語大学で教鞭をとったペルシャ語の大家であり、ペルシャ語の辞書や教科書の執筆者である。しかし、若き蒲生禮一は勇んでペルシャ研究へと飛び込んでいったのであろう。その熱気は、戦前・戦中期のイスラム(回教)研究に共通したもののように思われる。そこで、蒲生禮一を窓口にして戦前・戦中期のイスラム(回教)研究事情を知る機会を作りたいと、山本哲朗氏に、『アジアのなかの中東』という研究プロジェクトの存在を伝え、その作業の一環として、一度お会いして、自由に話を聴く機会を設けていただけないかとお願いした。 山本氏はメールを使われないために、実に何十年振りかの手紙でのやりとりとなったが、9月24日、この願いに対して、ふたたびお手紙を頂いた。それはわたしの願いを受け入れてくれるとの文面であったが、そこには思いもつかなかった、次のような文章が添えられていた。

小生、大川塾二期生でペルシャ班です。目下、卒業生の復員まで(僅か5期生までですが)の「手記」で綴る大川塾」を(自費)出版にかけております。多分来月にはお届けできると思います。

つまり、戦前・戦中期のイスラム(回教)研究の精神的支柱であった大川周明が突然、わたしの目の前に現れたのである。驚いたわたしは、大川周明のイスラム研究に興味をもち、いくつかの論文を書いている友人の臼杵陽氏(日本女子大学教授)に助けを求めた。 その間、山本氏とわたしとの間に会合の日程について調整が図られたのであるが、双方が忙しく、なかなか日程が定まらない。そのような時、山本氏が10月17日に山形県酒田市の日和山・日枝神社随身門前に出向き、「平成21年度大川周明博士顕彰碑・碑前祭並びに博士を偲ぶ会」に参加されるということを知った。降れば土砂降り、という言葉があるが、本当に、起きるときは、色々なことが同時に起きるものである。身軽さを身上とするわたしと臼杵氏は、この話に飛びついた。会合の日程に手間取っているのなら、いっそのことわれわれが酒田市の上記行事に参加させていただき、山本氏のほか、大川塾関係者からお話を聴く機会を作ったら良いではないか、というわけである。

こうして、この提案を山本氏にしたところ、快く同意してくださり、われわれは多くの大川塾関係者とお会いするという幸運に恵まれたうえ、美味しい酒と肴を楽しむことができた。とりわけ、山本氏と同期の大川塾二期生でアラビア語班の加藤健四郎氏と現在の大川家当主の大川賢明氏にはお世話になった。大川賢明氏はわれわれをご自宅にまで案内され、貴重な大川周明の遺品を見せてくださった。

掲載した写真は、「大川周明博士顕彰碑・碑前祭」での写真である。この碑前祭において、挨拶をさせられたわたしは、以下のようなことを言ったように思う。中東・イスラム地域研究者にとって、戦前・戦中期のイスラム(回教)研究、とりわけその精神的支柱であった大川周明は、気になる存在である。しかし、そこにはあまりに深く政治が関与しており、研究の対象として容易には近づけなかった。しかし、時代は変わり、現在の若い研究者は、「色目めがね」なく、それらを研究の対象にしてきている。つまり、虚心坦懐に戦前・戦中期のイスラム(回教)研究や大川周明を評価できる時代がきたように思われる。この作業は、ただ単に歴史研究としての意味だけでなく、現在の中東・イスラム世界研究の足元を見直す契機ともなるだろう。

もちろん、大川周明という人間を、イスラム研究のなかに閉じ込めることはできない。しかし、かれの思想家としての人生の出発点と終着点に、イスラムという宗教があったことは間違いない。われわれは、今後も、イスラム研究の先達としての大川周明に敬意を払い、かれのイスラム研究が現在の中東・イスラム世界研究にどういう意味をもつかを考えていきたい。そのため、何か、われわれのできることからことを始めたい。

かくて、このホームページが立ち上げられることになった。当面の作業は、山本氏を始めとした大川塾関係者が過去に収集され、また現在も収集されている資料をネット上で整理し、公表することである。それらは貴重であるにもかかわらす、そのほとんどが公表されていないからである。大川塾関係者はご高齢である。この作業を早く進めなければならない。このホームページが大川周明というイスラム研究者の人間的な拡がりを垣間見せる場となれば、幸せである。

(*)山本哲朗氏については、短いながら、本ウェブサイトのPDF資料『東亞経済調査局附属研究所・手記で綴った大川塾』の末尾における、ご自身の手になる履歴を参照されたい。
(2010年1月7日 文責 加藤博)


平成22年度大川周明博士顕彰碑碑前祭  平成22年10月23日