竹内啓一先生追悼集

竹内啓一先生追悼集編集委員会 編集 (2006年)より抜粋

目次 

写真集…………8
部内者として生き、部外者として見た、40年…………17
                   竹内啓一
追悼文集…………23
青木栄一 竹内啓一さんを偲ぶ…………24
青木 竹内先生を偲んで…………24
赤坂暢穂 竹内啓一先生の思い出…………25
赤羽孝之 竹内啓一先生の思い出…………26
浅井良夫 竹内先生の1950年代論…………27
阿部和俊 竹内啓一先生の想い出…………27
五十嵐勇作 奥多摩の合宿研究会の思い出…………28
石井 竹内先生の思い出…………29
石塚皓造 自由人・駒場に羽ばたく…………30
石原照敏 竹内啓一先生を偲ぶ…………30
伊藤 竹内先生を偲ぶ…………31
伊藤道一 「頑固な理想家」…………32
伊藤喜栄 「進適(大学進学適性検査)」世代の連帯と竹内啓一学兄………32
上田 1980年代の、ある竹内先生…………33
歌田 竹内先生をローマに訪ねて…………34
内川 竹内先生との想い出…………34
江波戸 健啖・健筆の竹内さん…………35
大岩川 眼のきれいな人…………36
大内桃子 竹内先生のこと…………37
大島襄二 竹内さんを偲ぶ…………38
大城直樹 竹内啓一先生の思い出…………39
大月康弘 国立桜の舗道にて…………40
岡田恭治 シェフィールド大学学生寮で出会った外人風の邦人地理学者……40
岡田俊裕 竹内啓一先生の温かさ・厳しさ・広さ・奥深さ…………41
岡本耕平 書物を通じての竹内先生との出会い…………42
小川(西秋)葉子 メディア・ディスクールとメリエスの銀河系…………43
奥野志偉 竹内啓一先生に学ぶ…………44
小野有五 ダンディ・竹内…………44
葛西大和 竹内啓一先生に学んだ私の個人史…………45
風巻義孝 彫刻家ファッチーニへの手紙…………46
香月洋一郎 落ちこぼれのゼミ生として…………47
勝田由美 イタリア語ゼミの思い出…………48
加藤 一橋大学地中海研究会での竹内啓一先生の思い出…………49
金坂清則 圧倒的なる存在感…………50
金田昌司 竹内啓一先生を偲んで…………51
河村 一橋大学第4期の竹内ゼミ…………51
北村暁夫 南イタリア研究を通した竹内さんの思い出…………53
久保田武 竹内啓一さんを偲ぶ…………53
熊谷圭知 竹内先生から受け取ったもの…………54
P. Claval TAKEUCHI Keiichi…………55
栗原武美子 竹内啓一先生の思い出…………57
栗原尚子 図書館から東校舎へ…………57
黒須純一郎 竹内啓一先生の思い出…………58
剣持武彦 竹内啓一先生追悼 ―地理学とイタリア学…………59
小寺百合 竹内先生との出会い…………60
小林正明 竹内先生のパエリア…………61
小堀 地中海サロンのことどもなど…………62
小山博正 竹内先生とのこと…………63
近藤章夫 竹内啓一先生の輪読会…………64
齊藤寛海 竹内啓一先生のおもいで…………64
齋藤慶雄 メキシコへの遠征旅行…………65
憲一 竹内先生はイタリア経済史研究のパイオニアでもあった…………66
櫻井和博 アカデミックにしてダンディ…………67
佐藤 竹内啓一さんに纏わる二、三の思い出…………67
澤田正彦 デビルマンの思い出…………68
島津俊之 竹内啓一先生の思い出…………69
清水一彦 昼食会、夕食会。そして、東校舎の臭い…………70
白坂 竹内啓一先生の思い出…………70
新宮 イタリアで結ばれた絆…………71
陣内秀信 日伊文化交流における竹内先生の偉大な功績…………71
杉浦芳夫 晩年の竹内啓一先生との交錯…………72
杉山和明 博論の審査を引き受けていただいて…………73
鈴木重幾 竹内先生の巡検と飲み会…………74
鈴木勇次 竹内先生に学んだ「島嶼学」…………75
関原浩志 竹内ゼミのころ -昭和40年代前半…………76
瀬戸寿一 越境する地理学 -竹内先生に学んだ研究の奥深さ…………77
千田 竹内先生その偉大なる足跡…………78
高木彰彦 巨人のごとき存在感に圧倒されて…………78
高津斌彰 大教授の地理学形成と若手への応援…………79
高橋健太郎 輪読会と書評…………80
髙橋眞一 シェフィールド滞在時の竹内先生の思い出…………81

高橋伸夫 竹内啓一氏とご同行したミラノとパリ…………82
高橋弘幸 教育者としての竹内啓一先生 -その秘められた情熱…………83
滝波章弘 先生の暖かさ、格好良さ、若々しさ…………85
竹内裕一 竹内啓一先生のこと…………85
竹内裕二 先生とワインを飲みたかった…………86
竹中克行 地理学と地中海世界のはざまで…………86
武谷なおみ 竹内啓一先生の想い出…………87
田代 高校地理教科書と竹内先生…………88
多田統一 インタヴュアーとしての竹内啓一先生…………89
立岡裕士 竹内先生を偲んで…………89
立石博高 竹内先生の思い出 -地理学と歴史学…………90
谷川尚哉 竹内啓一先生と御一緒した済州島巡検…………91
田村俊和 竹内先生の生物地理…………91
千葉立也 竹内先生を偲ぶ…………92
研二 竹内啓一先生の思い出…………93
寺阪昭信 竹内啓一さんとの出会いから…………94
戸所 繊細な感性で本質を見抜き大胆に行動された一級の国際人・竹内啓一先生…………94
中島弘二 竹内先生との対話…………95
長嶋俊介 島嶼学の恩人としての竹内啓一先生…………96
長島弘道 竹内さんのこと…………97
中俣 セピア色のインクのハガキ…………97
中村喜和 人を集める人 -地中海研究会に関連して…………98
西川 お礼とお詫び…………99
西川大二郎 竹内さんとの出会いと別れ -理論と実態調査との狭間で……100
野上正至 最後の著作にかかわって…………101
野澤秀樹 地理思想史研究とKeiichi Takeuchi…………102
野間晴雄 学会巡検と竹内先生…………103
萩原愛一 1970 年の小平ゼミのことなど…………104
A. Buttimer Adieu à Keiichi Takeuchi …………105
原田ひとみ オリーブの木陰に…………106
久武哲也 竹内啓一先生の批判的精神 -私的な思い出-…………107
日野正輝 私にとっての竹内啓一先生像…………108
藤田佳久 竹内先生の訃報を知って…………109
W. Flüchter Erinnerungen an Professor TAKEUCHI Keiichi…………110
帆足 社会地理OBフォーラムと竹内先生からの最後のメール…………112
Uta Hohn Erinnerungen an Takeuchi-sensei…………113
星野 竹内啓一先生を偲ぶ -竹内さんと教科書、地理教育研究会……115
細井将右 『プトレマイオス世界図』について…………116
正井泰夫 竹内啓一さんと本をつくる…………116
松井和久 竹内先生から教わったことへの回帰…………117
松浦千誉 竹内啓一先生との思い出…………118
松原 相模線と竹内先生…………119
松本健志 竹内啓一先生を偲んで…………119
水内俊雄 社会科学としての地理学を唱導され…………120
水谷 竹内啓一教授から受けた地理学教育…………121
昌久 「地理思想史研究グループ」と竹内先生…………122
宮川泰夫 地理学の基本と地理学史の先達…………122
宮口侗廸 竹内啓一先生との縁…………123
宮町良広 幻に終わった日英地理学会議と竹内先生…………124
宗竹啓介 竹内啓一先生を偲ぶ…………125
村岡和彦 不良性…………126
一広 教職の基本…………127
森川 竹内啓一先生を偲ぶ…………127
森滝健一郎 多面性のなかの一面…………128
守屋以智雄 桁外れな先輩…………129
矢田俊文 学会の2つの危機を救った竹内啓一先生…………130
矢延洋泰 “トスカーナ”の空の下で…………130
山口太郎 竹内先生に東京で教わったこと…………131
山﨑孝史 竹内啓一先生と9 11日…………132
山田 ウルビーノおよびローマでの日本近世絵画展と竹内先生…………134
山田晴通 「私淑」していた先生…………135
山田雄一 竹内先生を偲んで…………136
山本健兒 励まし続けてくださった竹内先生…………137
山本正三 竹内さんとの談話…………138
吉野正敏 竹内啓一先生を偲ぶ…………139
渡邊金一 地理学と歴史学…………140
渡部千秋 私のラテン人生の導師…………140
竹内マテルダ 夫の最後の日々…………142
周治 シチリアの思い出…………143
年譜 19322005…………144
著作目録…………150
あとがき…………175




地中海研究会メンバーによる記事


上田元 1980年代の、ある竹内先生

 学部2年の早い時期に,私は大学院に進もうと考え始めていた。院試の課す第2外国語試験の対策も兼ねて,仏語文献を講読できるゼミに入ろうと思い,1983年の年度替わりのころ,竹内先生のお部屋を訪ねた。小平で人文地理学の講義をとらなかった私は,そのときが先生との初対面だったと思う。「環境」を社会(地理)学的に勉強してみたいという私の考えに対して否定的なコメントを頂かなかったのをよいことに,どのようなご研究をなさる先生か僅かばかりも承知しないまま,私は3年になって竹内ゼミの一員となった。英語と仏語のゼミいくつかに参加し始めたが,人間主義地理学やマルクス主義地理学,時間地理学を含め,理論的・一般的な色彩の濃い地理学文献と格闘することになった。輪読ゼミではあったが,レジュメを作って臨むことはむしろ珍しかった。とくに極小人数ゼミには,一回分の訳文を携えて参加する必要があった。その甲斐もなくと言おうか,院試での語学試験の成績は芳しくなかったようで,合格発表時に呼び出されてお話を伺った際,社会地理学と社会調査の試験でどうにか合格点に達したことに加えて,「研究職に就くつもりなら苦労するよ」,そう申し渡された。

  先生は,院生の研究に対してほとんど口出しをなさらなかった。鈍感な私は,比較的最近までそう思い込んでいた。しかし,多くはないが,先生なりの働きかけをして下さったと,今では考え直している。卒論に取り組んで抱いた私の茫漠とした興味を,ほんの数語を費やされつつ,それは「領域性」のテーマだと明言されたことを,よく覚えている。また,しばらくして文化人類学者サーリンズの1976年の著書(The Use and Abuse of Biology: An Anthropological Critique of Sociobiology)をいきなり貸してくださったが,私はそこから学術的概念に対する社会思想的なアプローチの仕方を学ぶことになった。そうした頭の働かせ方は,先生が多くの書評をものされるなかで常に実践されてきたことだったはずだが,それを真似る結果となった私の原稿にコメントを求めたときには,「僕もそうだけど,文章が長くて難しいね」でお仕舞であった。

 私が先生のご研究の方向に気づき始めたころ,先生は1年近くの予定でシェフィールド大学に行ってしまわれた。奥様もお仕事で外出のとき,私は下のお嬢様とともに留守番を仰せつかったことがある。フィリピン・マルコス大統領失脚の報道をあの居間兼食堂のテレビで知ったのだから,これは19862月のことである。そのようにして何度かお宅に上がりこんだが,そのたびに,私は主が不在の書斎の机を勉強用に使うことを,奥様より許していただいた。ほとんどすべてがヨーロッパ言語で書かれた多くの蔵書を見て,これをみなお読みになったのか,

そうでもしないと研究職にはつけないのだろうと思った。そのころ先生よりいただいた絵葉書には,地理学研究が盛んなイタリアかスペインに留学してはどうかとある。これも私に対する働きかけの一つだったが,私はこれを契機に先生がどこで,どのように学問させようとする人なのかを悟り,同時に自分には無理だと即断した。当時,私の頭には海外研究や留学の文字は皆無で,ご帰国後に出席し始めた伊語ゼミも,文献読解の喜び以上の何かを覚える機会とはならなかった。むしろ,私の興味は並行履修していた社会人類学のゼミで触れたアフリカ社会に向いていた。

 まったくの偶然なのだろうが,その私に,先生はいきなりアフリカ研究をしてはどうかと話された。研究の内容や仕方について意見されたわけではなかったが,これが私にとっては最大の働きかけとなった。自らの能力を疑問視していた人間を,なぜかアフリカに行ってみたい,行けるかもしれないという気にさせた。結局,私は日本人としてイギリスに留学してケニア研究をするという,行く先々で説明を求められる決心をした。1988年秋,先生はローマ日本文化会館館長のお仕事で出国,私も同時に海外生活を始め,以降,1992年頭に私が幸運にも研究職に就くまで,ほとんどすれ違いとなった。この間に先生から頂いた書状には,留学先や一橋の先生方のおっしゃることをよく聞いて研究を続けるように,とにかく早く学位を取るように,と記されている。また,私が研究職に応募する際,先生に書いていただいた人物講評(推薦状)には,ご自分の海外滞在が私を「孤立無援」の状態に置いていると説明されている。やはり鈍感な私は,こうした文面を介して初めて,先生が何をお考えなのかを知るに及んだ。

  就職後,先生の前でケニア・タンザニア調査の報告を何度か行ったことがあるが,いつだったか,発表中の私に向かって始終笑みを湛えておられるように感じたことがある。なぜなのか気になったが,問うことなく過ごしてしまった。人づての推測だが,あるいはアフリカで地に足の着いた研究を私にさせようとしていたお考えが,かたちになりつつあるとお感じになったからなのかもしれない。私が竹内先生にお伺いしたいことをいかに多く抱えているか,お亡くなりになったいま,遅まきながら痛感し始めている。これから修練を積み敏感になればそれだけ,そうした思いが強まるのに違いない。それらのことを書き残されたものに求め直し,また心の中の先生にぶつけて反応を確かめながら,歩んでいこうと思う。

うえだ げん(東北大学大学院環境科学研究科、
一橋大学
1985年学部卒業)



大月康弘 国立桜の歩道にて

  桜の花の下で、何度先生とお遭いしたことだろう。

  春爛漫の空を見上げながら、ふと気付くと、きまって先生が向こうからお出でになるのだった。まだ学生だった頃、威厳と風格に満ちた先生のお姿を拝見しては、あぁご自宅はお近くなのだ、と誰に教えられるでもなく承知したものである。

   国立桜のアーチの下を、あの威風溢れる巨体を揺すられながら、いつも先生は大学通りを南の方からお出でだった。たぶん研究室に向かわれる途上だったにちがいない。あるいは、紀ノ国屋にイタリアワインをご覧に行かれるところだったのだろうか。とにかく、大学をエスケイプしてそぞろ歩く私を誰かがたしなめるかのように、きまって先生がいらっしゃるのだった。自身の怠惰に直面して、いつも私は冷や汗をかいていた。

  
1980年代前半に学生生活を送った者にとって、竹内先生は厳父であり、慈父であった。小平の人文地理学で初めて謦咳に接した私は、とつとつと始まる講話がやがて熱を帯びてくるのを、毎回楽しみに拝聴したものである。先生のお話しは、幅広く、奥行きがあって、いつも高邁だった。地理学が人間の生活に密着した学問であることは、私には身に染みて感じられていた。栄枯盛衰。地勢(地政)をその後上手く活かせなかった郷里足利は、当時にしてすでに長いこと構造不況の低迷のなかを漂っていた。もとより、先生の脳裏におありの「世界」の全貌など、田舎者の学生には窺い知れるはずもない。私は、大学の講義なるものの気高さに感銘を受けながら、ノートを取る手も忘れて傾聴するばかりだった。

 先生の令名は学内外に響き渡っていた。渡邊金一先生の膝元で勉強させていただきたくて一橋大学に入学した私は、専門課程に進んでからは、ゼミでのギリシャ語講読等に追われ、社会学部の講義を聴講する機会はめっきり減った。とはいえ、せっかく一橋に来たのだからと、竹内先生の教室には時々居させていただいた。先生が、渡邊先生と学問上の盟友であることは、ゼミの時間などに伺っていたから、アプローチや視点の取り方の違う両先生の地中海に対する情熱の間近に、常々身を置きたかったのである。

その後、親しくお話しを伺えるようになったときは、無邪気に嬉しかった。とりわけ、先生が渡邊、中村喜和両先生とご一緒に始められた地中海研究会の事務局を承ってからは、研究代表者である先生を、研究室やご自宅に、文字通りしばしば伺わせていただく僥倖に心が躍った。僭越な言い方をすれば、あの時期、研究会運営を二人三脚でやらせていただいた。そんな気分であった。もっとも、実のところは、先生に手取り足取りご指導いただいたと言うのが相応しいが。この

研究会への先生の思い入れは、計り知れないものがおありだった。ローマからご帰国後のあの時期、周到な目配りと、きめ細かな配慮の必要を直々に御示教いただいたことは、今でも万感の感謝とともに思い出す。

 ローマの日本文化会館に先生をお訪ねしたのは、91年夏のことである。ギリシャに調査旅行に出掛けた私は、アッシジ見物かたがた不躾にも、ご帰国前で多忙を極めておられたはずの先生をお訪ねしたのだった。無礼な訪問にもかかわらず、奥様、左利奈さんともども御自宅で心温まるもてなしを下さった御恩は、生涯忘れられるものではない。「ローマにも桜はありますよ」。そう先生は言われた。しかし、そのとき先生は、国立桜の盛観をしばらく思い出しておられるようだった。


 大病をされてからは、桜の木の下を、先生は自転車に乗ってお出でだった。杖を左手に持たれながら、「図書館に来たのですよ」と微笑まれるのが常だった。私の研究室は図書館に向かって右翼にあるので、春に限らず、ときどき立ち寄られてはお茶をご一緒させていただいた。

2005年の国立桜を先生はご覧になっただろうか。その前年、桜はいつになく早咲きだった。3月末に在外研究のためパリに出掛ける直前、私は、やはりご自宅の方から自転車でやって来られた先生に、大学通りの舗道でお目に掛かった。にこにこされながら、いつものように挨拶を下さったのが、実は私にとってご謦咳に接した最後となってしまった。帰国後、ほどなく予定された初めての著作上梓のために、忽々のうちにお目に掛かれず仕舞いになってしまったのが、残念でならない。先生御逝去のまさにその日(625日)に拙著は完成した。だが、あの微笑みとともに、御叱正をいただく機会は永遠に失われてしまった。

 ローマ、マルタ、アルゲーロ。国外でご一緒させていただいた思い出もまた尽きない。しかし、あの桜並木の舗道の上で、きまってお目に掛かった先生のお姿が、私の脳裏には強く思い出される。文字通り世界を縦横無尽に飛び回られた先生だったが、普段着で間近に御示教をいただいた身の喜びとでもいうのだろうか。国立桜を愛でられた先生のお姿は、桜花の木洩れ陽とともに舗道の光景に刻み込まれている。

       おおつき やすひろ(一橋大学大学院経済学研究科)



勝田由美 イタリア語ゼミの思い出

 一橋大学に在学していた私がイタリアを研究しようと決めた頃、竹内先生は客員教授として英国シェフイールドに行かれていた。その後帰国してさらにローマの日本文化会館館長としてイタリアに赴任されるまでの2年間、ちょうど修士課程に進学した私は、社会学のゼミに籍をおきながら、竹内先生のイタリア語ゼミに参加することができた。

 語学堪能な竹内先生は、大学院では4カ国語程度の文献を読むゼミを、それぞれ並行して隔週で開いているということだった。イタリア語のゼミが常にそこに含まれていたのかどうかはわからないが、その頃の出席者は2~3名で、その少ないメンバーが学期ごとに少しずつ入れ替わった。地理学だけでなく私のように社会学や言語学など他の分野の専攻者もおり、イタリアを研究対象としていたのは同じく社会学専攻の新原道信氏と私だけだった。先生が用意されたコピーを毎回5~6頁のペースで読んでいったが、私は独学で文法の学習を終えた程度で、とにかく予習がつらかった。最初は地理学関係の本からイタリアの州制度や少数言語の問題をとりあげた部分を読んだように思う。それは地図や統計が豊富で文章もさほど難しくなかったが、3回目ぐらいからは南部問題に関するアンソロジーをテキストに、いくつかの章を読んだ。このときにヴィッラリやソンニーノなどを初めて読んだはずだが、ただ予習が苦しかったという以外には、何を読んだのかもろくに覚えていない。ひとつだけ記憶にあるのは、ニチェーフォロを読んだことである。「実証主義者」ニチェーフォロの、南部社会の後進性を北部人・南部人の骨格の違いによって説明しようとする議論自体も当時の私には驚きだったが、そのとき竹内先生は、「彼の南部主義は逆説的なのだ」という含みのあるコメントをされた。私にはその意味がわからなかった。その後も含めて竹内先生のゼミに参加したあいだには何度か似たような経験があったが、先生ご自身も多くを語られなかったし、私もそれ以上尋ねることはしなかった。今にして思えば残念なことである。

 竹内先生がローマに赴任された3年間のうち、2年間は私も留学生としてイタリアに滞在する機会を得た。竹内先生やご家族には日本でも学生時代からほんとうにお世話になったが、イタリアでもことあるごとにお気遣いいただいた。

帰国された竹内先生が駒澤大学に移られるまでの2年間、私は、すでにオーバードクターになっていたが、再び指導を受ける機会に恵まれた。テキストは、南部問題に関する
 

歴史的文章のアンソロジー(R. Villari (a cura di), Il Sud nella storia d’Italia, Bari , Laterza, 1988)である。参加者は、姜玉楚さんと藤岡寛己と私の3人で、私たちの方からお願いしてゼミを開いていただいた。上記の本から読むべき章を先生に選んでいただき、ヴィッラリ、ソンニーノ、フランケッティ、フォルトゥナート、ニッティ、デ・ヴィーティ・デ・マルコ、ストゥルツォ、サルヴェーミニ、ドルソ、グラムシ、ロッシ・ドーリア、サラチェーノの文章を読んだ。竹内先生はご多忙にもかかわらず、隔週のゼミに欠かさずおつきあいくださった。ちょうどこれらを読み終えた頃に姜さんは帰国され、その後は先生のご示唆で、私と藤岡は、北部を中心とするイタリアの工業化問題に関するアンソロジー(L. Cafagna (a cura di), Il Nord nella storia d’Italia, Bari, Laterza, 1962)からいくつかの章を読むことができた。テキストには辞書にない単語や、当時の経済的・社会的背景を理解していないとわからない箇所がたくさんあり、竹内先生には教えていただくことばかりだった。先生は読解に必要な解説以上のことをほとんど語らず、ご自分の考えはときどきぽつりと言われるだけだった。今ではその簡潔な言葉のさらに断片しか思い出すことができない。

 何年かたって、私と藤岡は、ゼミで読んだ南部問題論を翻訳したいと先生に相談した。先生は、出版社がひきうけないだろうと難しい顔をされたが、その後、先のテキストからどの章を訳したらよいかとおききしたときには「ゼミで読んだ章を順番に訳していけばよい」とすぐにお返事をくださった。いくつかの章については「近年原著が再版された記憶があるので版権を調べておく」と書き添えてあり、「イタリア版古典的ケインズ主義者」サラチェーノについては「今後評価の見直しが必要だろう」と結ばれていた。私は、職場の紀要に少しずつ翻訳を載せていくことにした。昔読んだ文章とはいえ理解も訳も一筋縄ではいかず、結局は竹内先生に多くの点で教えを乞うた。最初に訳したヴィッラリの章の抜刷をお渡ししたとき、先生はまんざらでもないといった表情で「ご苦労さんでした」と言われた。今年の2月末、ソンニーノの抜刷をお送りしたときは、いつもはあまり時間をおかずにお返事をくださる先生から何の音沙汰もなく、少しだけ気になっていた。その頃にはもう入院されていたのだった。

 今は、大きすぎる宿題をかかえて途方にくれている子供のような気持ちである。何年もかかるだろうが、テキストの翻訳は続けていきたい。竹内先生から学んだはずのものと、学べるはずであったものを確認する作業としても。

   かつたゆみ(工学院大学工学部、一橋大学1988年卒業)                       



加藤博  一橋大学地中海研究会での竹内啓一先生の思い出

  竹内啓一先生は一橋大学地中海研究会における、発足以来のリーダーであり、私にとって、竹内先生は、一橋大学地中海研究会そのものであった。それは、私の研究歴において、この研究会が実に大きな意味を持ったからであるとともに、私の竹内先生との関係が、ほぼこの研究会を介してだけのものだったからである。しかし、その経験だけで、竹内先生の大きさを知るのに十分であった。

  一橋大学地中海研究会の設立の経緯については、竹内先生とともにこの研究会を立ち上げた渡辺金一先生と中村喜和先生が語られるであろう。そこで、ここでは述べないが、私は、この1973年に発足した研究会において、長らく最年少者であった。参加させていただいたきっかけは、私の修士論文『中世エジプト貨幣史』の審査員の一人に渡辺金一先生がなられたことであった。一橋大学は小さな大学なので、イスラム史関係の論文審査に、ビザンツ学の大家にご出動いただいたということである。実は、それまで、講義を受けていたものの、渡辺先生との個人的な面識はまったくなかった。その渡辺先生が、私の論文を読まれて、発足間もない地中海研究会への参加を勧めてくださったのである。それは、1974年のことであったと思う。その後30年以上もの長きにわたり、渡辺先生には公私ともどもお世話になっている。つまり、地中海研究会は、渡辺先生、竹内先生と私との間の縁を取り持ってくれたということになる。

  このこと一つをとっても、私が地中海研究会に対していかに感謝しているかがわかろうというものである。ともかく、今考えても、そうそうたるメンバーで、私より一回りどころか、二回り近くも歳嵩の「えらい先生」がほとんどであった。また、研究会の方針は、メンバーの数を増やさず、専攻の違いや、地中海の北と南、西と東の研究対象地域の違いを越えて、気兼ねなく、自由に、そして楽しく意見交換を行う場を設定しようというものであった。そのため、議論の後の飲食会も、研究会の一部であった。つまり、「大人」の研究会であったのである。それが、ほぼ毎月、それもほとんど全員が出席して、継続していた。慌しい現在からみると、信じがたいことである。私は毎回、欠かさず出席していた。しかし、最初の数年は、ただ黙って座っているだけで、一言も言葉を発しないこともあった。というか、発せられなかった。そのことをいうと、古参のメンバーは、「そんなことはない。お前は初めからうるさかった」といわれるが、これは本当である。本人がそういっているのだから間違いない。そもそも、古参のメンバーは、最初の数年において、私などまったく眼中になく、置物ぐらいに思っていたのではないかと、私はひそかに思っている。

  それはともかく、研究会に参加してすぐに分かったのは

、地中海研究会が竹内先生を中心にまわっているということである。今、その難しさをこの身で感じているが、ひとを取りまとめるだけでも大変なのに、そこから継続した立派な成果を生み出すのは並大抵のことではない。竹内先生は、当時助手であった栗原尚子さんの助けを得て、研究テーマの設定のほか、事務全般にわたって、研究会を統括しておられた。そこで、ふんだんに活用されたのが、竹内先生の国内、海外における各方面での多彩な人脈であった。とりわけ、海外調査で、その能力は際立っていたという。残念なことに、私自身は、竹内先生と調査をともにした経験がない。しかし、近年、三度にわたって、地中海周辺諸国で、地中海研究会主催の国際ワークショップをもった経験から、さもありなんと思う。この三度の国際ワークショップにおいて、準備段階からワークショップ当日の報告まで、その中心には竹内先生がおられたからである。海外調査をともにされた古参の研究会メンバーは皆、口をそろえて、竹内先生を「隊長」と呼んでいる。それは、われわれ若い世代においても変わらない。竹内先生は、われわれの「隊長」であった。

 一橋大学地中海研究会は、今年の2005年で、33年目を迎えた。その後半は、偶然の重なりから、私が研究代表としてやってきた。メンバーもまったく変わった。一橋大学地中海研究会と名乗るが、一橋大学スタッフは、まったくの少数である。研究会の雰囲気も変わった。しかし、2、3年ごとに研究報告書として刊行される『地中海論集』は、邦文から欧文の雑誌となり、海外からの問い合わせが来るほどに認知されるようになった。それもこれも、自由な雰囲気で、気兼ねない意見交換を楽しみながらも、「やることはやる」地中海研究会の伝統を引き継いでいるからである。しかし、それにしても、時代は移り、研究環境も、研究者の気質も大きく変化した。地中海研究会もその当初の役割を終え、もうそろそろ退け時かなと思うこともある。しかし、古参のメンバーで亡くなられた方々がかつておっしゃったこと、行動したことを思い出すと、昔とは違った意味で、このようなネットワーク型の「大人」の研究会こそ、今必要とされているのかもしれないとも思う。現在、地中海研究会は「地中海の島嶼」についての海外調査を実施しつつある。その指針の一つとなっているのは、昨年9月におけるイタリアのヴェネツィアでの地中海研究会主催の国際ワークショップと、昨年11月における東京・国立での地中海研究会・定例会で竹内先生から戴いたアイデアである。この二つで、竹内先生は発表、報告された。この海外調査を竹内先生とともに終えられなかったことは、まことに残念である。竹内先生、これまで、いろいろとありがとうございました。

         かとう ひろし (一橋大学大学院経済学研究科)                      



栗原尚子 図書館から東校舎へ

19684月、社会学部の研究室助手として勤めるようになってから14年間、竹内先生の研究・教育・研究会活動などの「仕事」に身近に接してきました。生きることにおいて何にも増して「仕事」を最優先し、その徹底した完全主義振りにはいつも頭の下がる思いがしていました。

  当初2年足らずの間、研究室は中央図書館の南端にあり、机を並べていました。1日に何度となく図書館書庫への仕事を仰せつかり、そのためには大変便利なところにありました。それから、大学通りの東側の東校舎に研究室は移動し、実験室として助手の居場所が新たに作られました。後に、右隣に文化人類学の長島研究室ができましたが、同じ社会学部で社会心理学の南研究室が古くから入っておられました。その他、商学部の研究室がいくつかあり、一橋大学の実験系講座が主に東校舎を利用していました。人の出入りのないときは閑散としており、夏休みなどには(そういえば14年間夏休みをもらったことなかった!!)、夕刻に蝙蝠が廊下をスイ―ト飛びぬけていくほどでした。

  大きな部屋を内部で仕切ったものであるため、内部のドアで社会地理学実験室とは接しておりましたが、竹内研究室は開放空間でした。和書の地理学関係の文献・図書を備え、学生に貸し出すことを認めておられたので図書室であり、ゼミを行うゼミ室であり、毎水曜日の入江先生を囲んだ談話会の場であり、研究会を行う場でした。1973年に発足した地中海研究会は長い間、毎月1回日曜日に、この研究室で開かれておりました。すごいそしてこわい研究会です。超一流の研究者が集い、その研究成果を聞くのは、少し前には学際的ともてはやされましたが、本来の意味での学際的な研究でした。このような研究会への参加を認めてくださったのも、竹内先生でした。

有名な原書で欧語の地理学関係の文献を読むゼミは、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・スペイン語のゼミが開かれ、正規のカリキュラムが終わってから午後5時から始まりました。ゼミテンは、「ここじゃ、英語は外国語のうちに入らないんだものなーーー」とぼやいておりましたが。この開放空間はゼミテンにとっては解放空間であり、よく出入りするゼミテンを先生は温かく見守っていらっしゃったということでしょうか。

  数々の逸話を残していらっしゃいますが、この場では控えます。限りないので。

  最後に、私が1972年から73年にかけて1年間、メキシコに政府交換留学生として出られたのも先生の力あってのことでした。学内4学部は、認めてくださる学部とダメという学部に別れ、最終的には都留学長の判断で、休職で出ることができました。私にとって今日あるまさに出発点でした。学会誌への初めての投稿は、書評を勧められました。私に限らず、同じ道を指し示された方々もおられますように、研究論文を書くに当たっての最善の修養とみなされていたようです。
  お亡くなりになってから半年以上過ぎ去っても、未だに信じられません。今回は、長い海外出張にお出かけになられたのでしょう。こちらから出向かない限りお会いできないのが残念です。追悼にあたり、「書評」を書くことを自らに課すことで、この任に代えたいと思います。

               くりはら ひさこ(お茶の水女子大学)



斎藤寛海  竹内啓一先生の思い出

  竹内啓一先生の第一印象は、にこやかではないが親切な人、であった。最初にお会いしたのは一八年くらい前のこと。(故)清水廣一郎先生のお世話で、一橋大学とは何の関係もない私も、長い間希望していたこの大学の地中海研究会への参加を許していただいたが、その例会に最初に参加した日のことである。大学本館のある構内とは道路を隔てて反対側にある構内を、連絡してもらった部屋はどこだろうかと、あちこち見回しながら歩いていたとき、向こうから髭を生やした大柄な人が歩いてきた。私のことをじっと見た後、「研究会に出席するのですか」というようなことを聞かれ、「ええ、そうです」と答えると、「こういけば部屋にいけます」と教えてくださった。にこやかではないが親切な人だなあ、それにしても何で研究会に来た者だと分かったのだろう、きょろきょろしながら人通りのない場所を歩いていたからだろうか、と思いながらその部屋に入った。それからの記憶ははっきりしていないが、やがてその人も部屋に入ってきて、それが竹内先生という地理学者だということを、誰かから教えてもらったような気がする。かなり強かったこの第一印象は、その後何回もお会いしているうちに、にこやかではないという部分は薄れ、親切なという部分が濃くなった。そしてさらに、優しい人、人の置かれた立場を鋭く察知し何食わぬ顔でそれに温かく配慮してくれる人、という印象に変わった。

 その後何年かして、研究会の機関誌にイタリア語のマニュスクリプト史料の転写とそれについての簡単な解説を掲載してもらうべく、その原稿を提出した。締め切りを少々過ぎていたこともあり、ネイティヴ・スピーカーに校閲してもらうということには思い至らずに、書き終わった原稿をそのまま提出し、ほっとしていたときのことである。突然、竹内先生から自宅に電話をいただいた。「あなたが作文した部分のイタリア語にはおかしいところがあるので、直してみたが、それでいいか確認して欲しい」といわれ、一時間近くかかったような記憶があるが、修正してくださった文章を逐一読みながら、丁寧な確認作業をしてくださった。おそらくイタリア生まれの奥様も目を通してくださったのではないかと思われるが、そのことについて先生は何もおっしゃらなかった。そのときは自分の至らなさにすっかり恐縮してしまったが、時間がたつにつれて感謝の気持ちが心の底から湧いてきた。学問には妥協のない厳しさを求める一方で、ご多忙な日々だったと思われるにもかかわらず、未熟な人間に対して実に丁寧に指導をしてくださる、しかもご自分の親切さが相手に気づかれるのを恐れるかのように、何食わぬ顔をしてさっとしてくださるのである。尊敬するというだけではたりない、お人柄に魅せられた気持ちになった。失礼を承知でいえば、惚れてしまった、という表現がぴったりかも知れない。

 

 一昨年の二〇〇四年九月、地中海研究会がヴェネツィアで外国人研究者たちを交えた研究会を開催し、竹内先生も参加された。三日目は全員で昼はヴェネツィア近隣の島々を見学し、夜はサンタ・マルゲリータ広場のレストランで食事をした。広場に置かれた屋外のテーブルで懇親会を開いたのである。いかにもこの研究会らしい、またイタリアらしい、まったく気兼ねのない、ひたすら楽しい食事会であった。そこでは食べること、飲むこと、そして隣席の人たちとの会話に没頭したので、それ以外のことについての記憶は定かでない。最長老の竹内先生が、最初か最後の挨拶をされたような気がするが、それすらはっきりしない。しかし、お酒を召し上がり、日焼けに加えてすっかり血色のよくなられた先生が、誰彼となくお相手をしながら実に楽しそうに歓談されていたお姿は、記憶の片隅に残っている。夜も更けてからホテルに戻り、その狭いロビーで、先生と私ともう一人の人と三人で一時間くらいだろうか、お話をした。石川県小松市ですごした中学、高校時代の思い出や、研究者になる道を選んだことなどを懐かしそうに話されたが、このようなお話を聞くのは初めてであり、心を開いてくださったことがとても嬉しかった。さらに、このとき私がパソコン音痴であることを理解された先生は、私を先生のお部屋まで連れて行かれ、パソコンによる情報収集の方法、とりわけイタリアの学術情報の収集方法を、先生のパソコンを使って丁寧に教えてくださった。先生の人なつこい側面に接することができてとても嬉しかったが、いつもの先生とはわずかに違うような感じがし、かすかな不安が湧き上がってきた。しかし、イタリア人の友人が驚くほど先生は元気なご様子だったから、単なる杞憂だろうと思い、そのことは忘れるともなくいつのまにか忘れてしまった。

 一昨年十一月、先生は研究会でご報告をされたが、これがお会いする最後の機会となった。いつもの通り元気にお話になり、体調のご不調は感じられなかったが、今になって思うと、研究会の皆さんに先生流のお別れの挨拶をなさったのかも知れない。先生から昨年いただいた年賀状には、研究会が科研費で行うイタリア関係の調査は、あなたがたが主体になってやってください、ということを書いてこられた。それは先生のご指導のもとに行う計画だったから、このことは計画の変更を意味する。これを書かれたのは、かなり深刻なご病気になられたからではないかと思い、先の不安を思い出して漠然と暗い気持ちになった。入院されたとの知らせをまもなく受けたが、そのときにはもはやそれほど驚くことはなかった。この年賀状は、私に対する別れのご挨拶だったように思う。

                さいとう ひろみ(信州大学教育学部)

 



竹中克行  地理学と地中海世界のはざまで

  日本の内外の地理学はもとより他分野でも幅広い知己をおもちであった竹内先生について、他の方々が語られないであろう何かを記すことができるとすれば、それは地理学と地中海地域の研究という先生と私の間にあった二つの接点について、私のささやかな個人的経験を通じて語ることをおいてほかにないであろう。

 私が竹内先生と初めて個人的にお話する機会を得たのは、1995年に外務省のある外郭団体の仕事に私をお誘いくださったときだったと記憶している。外国の地理教科書の日本に関する記述について提言を行うという任務を前に、私は正直いって自分の力量不足ゆえの不安を抱く一方で、この仕事がナショナリスト的宣伝の謗りを受ける結果になりはしないかというためらいを感じた。私は、研究者としてまだ駆け出しの段階にあった自分に声をかけてくださった先生の勇気に今でも感謝しているが、先生ご自身も私以上に深い自省とともにこの仕事に取り組まれたことを後に知り、少しほっとした気分になった。ともあれ、出版社から突然仕事の電話がかかってきたかと思うと、しばらくして「あのときの犯人は僕です」と悪びれもせずに仰る先生の大胆さとおおらかさには、その後もたびたび驚かされることになる。

 1998年に愛知県立大学に職を得た直後から、一橋大学地中海研究会のメンバーに加えてもらうことになった私は、この研究会の場で竹内先生とたびたびお会いするようになった。まだ若かりし頃の竹内先生が大学の同僚の方々とともに立ち上げられた地中海研究会において、地理学者はむしろ少数派ともいうべき存在だった。私が参加したときには栗原尚子さん、故磯部啓三さんがいらしたくらいのものである。研究会は、学問領域を異にしつつも地中海というフィールドで結ばれた研究者たちが自由に発信する学際的な交流の場として発足し、竹内先生亡きあとも、研究会の発展のために一橋大学の加藤博さん、大月康弘さんらを中心に私たちは日々努力している。どのような分野の報告に対しても積極的に質問や意見を投げかけられる竹内先生のご活躍ぶりからは、地理学という出発点を大事にしつつも隣接分野との間で新しい問題関心を発掘することの重要性を、私なりに学ばせていただいたと思っている。

 竹内先生とは、地中海研究会の国際ワークショップで何度かごいっしょさせていただいた。地図もガイドブックもなしに旅に出る人ばかりという研究会にあって、学生時代にはけっして地理少年ではなかったらしい先生は、いつの間にか地

形図や資料を用意してエクスカーションにせっせと出かけるという、よきフィールドワーカーぶりを発揮しておられた。先生のお仕事のスタイルは、現地調査で得たデータを論文の中にぶちまけるものではなかったが、現地の人々との対話を惜しまない丹念なフィールド観察ぶりにおいては、けっして人後に落ちるものではなかった。イタリア語、カタルーニャ語、スペイン語など、異なる言語を母語とする人々が集まるワークショップの場でも、先生は、さまざまな地域の常識や人の心を知るがゆえに、会を成功に導くためにさりげない助言をくださった。長く複雑な歴史のしがらみを負った地中海地域の研究にスペインを足場に取り組んでいる私にとって、竹内先生がお書きになったものはいうに及ばず、対象に沈潜するための人付き合いの方法という意味でも教えられたことは多い。

 今から2年ほど前のことになろうか。ある出版社から地中海ヨーロッパの地理に関する総合的書物の編者を仰せつかった私は、地中海とその島嶼における交流と生業をテーマとする原稿の執筆を竹内先生にお願いした。それに対して先生は、同様のテーマで30年前に原稿を書いたときから少しも進歩していないというご謙遜とともに、いつくたばるかわからない者はできるあてのない仕事を引き受けるべきではないと自戒している、との丁寧な断りのお返事をくださった。それは、私たち若い世代の研究者にとって、自分たちで新しい学問の道を開きなさいという励ましの言葉でもあったが、まさかお元気だった先生がそのときの言葉通りになってしまわれようとは想像だにしなかった。2004年秋にヴェネツィアで開かれた国際ワークショップの巡検で、イタリア人の案内役の通訳をしながら疲れた様子もなく一日中歩き回っておられた先生の姿、食事のときにときたま自慢話も交えながら、離れた席の会話にも飛び込んでらっしゃる無邪気な姿、それらすべてが私の脳裏に焼きついたままになっている。

 地理学と地中海世界のはざまで竹内先生の両方の側面にふれる幸運に恵まれた者として、先生への敬愛の念は深まるばかりである。研究者として、そしてひとりの人間としてのスケールと寛容さを教えてくださった竹内先生、どうか安らかにおやすみください。

たけなか かつゆき(愛知県立大学)



立石博高  竹内先生の思い出ー地理学と歴史学

  竹内啓一先生にはじめてお目にかかったのは、いまから20年前のことであった。都立大学の助手を勤めた後、京都の同志社大学で教鞭をとり始めたものの、東京を離れていまだ関西での学問的刺激も受けることができず、多少とも焦っていたころである。渡邊金一先生や竹内先生らが中心になって立ち上げられた地中海研究会では、もう少し若手の研究者を加えて地中海研究の将来的継承を図られたいということであったと思う。私は都立大学助手時代にお世話になった故清水廣一郎先生のご紹介を受けて、たしか暮れの研究会(当時は地理学研究室が開催場所になっていたと思う)に参加させていただき、大変に緊張したことを覚えている。

このとき私は、啓蒙期スペインの大西洋交易の特徴について拙い報告をさせていただいたが、先生方の鋭い質問にうまく答えられず、脇の下にぐっしょりとかいた汗が今でも皮膚感覚として残っている。とくにイタリア地理学の先生としてお名前は存じ上げていた竹内先生から、かなり詳しくスペインのことを聞かれて、その博学と知的鋭利さにいたく感銘したのであった。あのときお茶くみのようなことを甲斐甲斐しくしていたのが加藤博さんだったことをなつかしく思い出す。

 さて、爾来、竹内先生とは地中海研究会の例会やワークショップでお付き合いをさせていただいたが、こうした会合には和やかな飲み会がつきもので、ずいぶんといろいろな話をさせていただいた。そうしたとき、歴史家として文献研究にたよりがちな私がつねに反省させられたのは、出来事が繰り

広げられる空間認識の必要性ということであった。いったい、マドリードとバルセローナは、またマドリードとセビーリャはどのくらいの距離があり、鉄道やモータリゼーションが発達していない時代に人びとの移動にはどのくらいの日数がかかったのか。こうした基本的なことがらを見落としがちな私は、竹内先生の雑談を交えての鋭い質問にたじたじとなっていたのであった。 

 
近年、私はスペイン国民国家形成の問題を、記念碑や記念日といったさまざまな装置を具体的に明らかにするという作業のなかで考えているのだが、竹内先生からは、スペインの国民国家の空間的広がりと認識についてのご質問を受けていた。スペインは国民国家として成立すると同時に、アメリカ植民地を失ったあと北アフリカに進出=侵攻し、そうした支配域を含めてスペイン・アイデンティティを構築しようとしたからである。そして、その要(かなめ)となるのが、19世紀末に各地につくられた地理学協会であった。こうしたことの重要性を昨年のヴェネツィアでのワークショップのおりに示唆され、いままさにイタリア地理学協会の歴史とスペインのものとの比較についてご教示を願おうと思っていた矢先の、先生のご不幸の知らせであった。本当に残念であるとしか言いようがない。いまはただ先生のご冥福をお祈りし、私なりに国民形成と地理学についてのスペインの事例を少しでも深めていきたいと思っている。

             たていし ひろたか(東京外国語大学教授)



中村善和  人を集める人‐地中海研究会に関連して‐

私は一橋大学社会学部の教授会で、30年ほど竹内さんの同僚でありました。年齢でいえば、たしか私のほうがちょっと年かさでありますが―早生まれと遅生まれの差くらい―私は回り道をしましたので、社会学部に採用されたのは、竹内さんのほうが早かったのです。それ以来、私は竹内さんを人生の先輩のように感じてきました。

  1973年に竹内さんと経済学部所属でビザンツ研究家の渡辺金一先生が相談されて、《一橋大学地中海研究会》を創立されたとき、私も仲間に入れてもらいました。この研究会には一橋大学だけではなく、ほかの大学や研究所に勤める方々がメンバーとなっていました。一橋よりむしろほかの大学の人の方が多かったのです。専門もバラバラでした。

  当時はこの種の研究会はまだ珍しかったらしく、社会学部の老教授連からロシア語の君がどうしてこの会に入ったの、と冷やかし半分によく訊かれました。ロシアは黒海とボスフォラス海峡で地中海とつながっているのです、と私は答えたものです。それは地図の上のことで幾分言い訳がましく聞こえたかもしれませんが、歴史的にロシア文化がビザンツ=ギリシャ世界と関係が深かったことは言うまでもありません。ロシア文字はギリシャのアルファベットにもとづいているのです。

  私は自分の選択してきた研究テーマを思い出してみますと、この地中海研究会から決定的な影響をこうむっていることを自覚しないわけにいきません。地中海研究会の活動には、動かぬ証拠があります。大学の紀要である『一橋論叢』の1974年12月号を「地中海特集」としたのを手はじめに、ほとんど毎年のように論文集を刊行しました。紀要にたよらず、一定のテーマをもうけて独立の論文集を出したこともあります。日本語ではなくて全巻外国語(ヨーロッパの諸言語)だけで執筆した号もあります。地中海研究会の月例の集会は今では加藤博さんや大月康弘さんのような若い世代の研究者によって受け継がれています。論文集の刊行もつづいています。

  初めのころ、地中海研究会は竹内さんの研究室で行なわれました。当時は東校舎と呼ばれた古いどっしりした建物の1階に経済研究所が入っていて、竹内さんの研究室はその2階にありました。実験講座に指定されていたせいで社会地理学の研究室は部屋の数が多かったこともありますが、専属の

助手が控えていて(そのポストを占めていたのは栗原尚子さんで、彼女はその後お茶の水女子大の先生になりました)、いつでもおいしいコーヒーの振る舞いにあずかることができたためでもあります。もありますが、専属の助手が控えていて(そのポストを占めていたのは栗原尚子さんで、彼女はその後お茶の水女子大の先生になりました)、いつでもおいしいコーヒーの振る舞いにあずかることができたためでもあります。
  
  今から数えると40年間にもわたる付き合いで、思い出は数限りなくあるのですが、この場では、竹内さんのことで、忘れられないエピソードを一つ二つ申し上げたいと思います。 地中海研究会が文部省の海外調査費の交付を受け、メンバー全員がスペイン、イタリア、ギリシャなどへ手分けして出かけたことがありました。初回は1977年のことで、その前年には渡辺先生と竹内さんが予備調査に行きました。私はロシアとの関係でギリシャ行きを選びました。渡辺先生や松木さんと一緒にエーゲ海に浮かぶナクソスという島へ出かけて、島の中央に位置するフィロテ村で3か月ほど暮らしたのです。竹内さんは総括責任者という立場だったでしょうか、ギリシャへも巡回してきて、1週間か10日くらいアテネやフィロテ村で共同生活をしました。そのとき竹内さんから助言を受けたのは、フィールドワークの進め方だけではありませんでした。食事どきになると、どこのレストランのどういう料理がいいか、竹内さんの提案どおりにするとまず間違いありませんでした。むろん、竹内さんは長年の経験で地中海料理に慣れていた、という事情もありしょう。町の通りを歩いていても、どの方向からどんな匂いが流れてくるかで、その先にどんなレストランがあるか、竹内さんには見当がついていたようであります。

  それから、もう一つ。研究会のような集まりのときはいうまでもありませんが、立食パーティーのような場合、竹内さんのまわりにはいつも人が集まりました。それは、故人がさまざまな言葉ができたためばかりではありません。竹内さんは非常に視野が広くて頭の柔軟な人でしたから、どんな人とも話がはずみ、談論風発してまわりに人が集まってきた、ということです。

  こういう友人を失って、私は非常に寂しい思いをしているところであります。

              なかむら よしかず(一橋大学名誉教授)



渡辺金一  地理学と歴史学

  今年は一月末から二月初めにかけて、一週間程ニュージーランドに出掛けた。南半球最初の旅行である。腰痛のため、はからずも家内と娘の荷物の番人を私がおおせつかることになった。我慢が肝心と、トレッキングから帰って来る二人を何時間もかけて待つわけである。

 ニュージーランドでは空港を出たとたん、「すし」の広告が目にとびこむ。加えて、中国、韓国、ヴェトナム、タイなどのレストランが軒をつらねる。東南アジアの出身者がひらくお店である。それなりに結構味わえるのだが、そこに見当たらないのがやはりそばや。帰国して飛びこんだのが、上野の池之端の蓮玉庵。墨痕鮮やか表具、「やがて(あるいは「今に」?)見よ、棒くらわせん蕎麦の花」をかかげるこの蕎麦屋を、竹内さんに紹介しなかったのが残念である。大みそかになるとよく出掛けてそこで年越しそばを祝ったものである。

  外国旅行では竹内さんは、食事相手の私にいつも暖かい配慮をたやさず、私のためには店の絶品をすすめ、自分にはセコンドランクを注文し、私の顔をのぞき込みながら、私の満足度をたしかめるのだった。かれの胃袋は並外れて大きく、大皿をいくつもペロリと平らげ、料理にマッチしたアルコール類を、あたかも鯨よろしく、ゴクゴクと飲み干すのである。それをみて、グルメたるもの、そうでないとつとまらない、と思いながら、それに何度も追いつこうとしたあげく、身の程を知って断念した。ただそれが果たして健康に良かったかどうかは別問題で、竹内さんはどうも太りすぎていたように見うけられた。

 食い道楽と学問はどうも一脈相通ずるものを持っているようで、学問一般、ことに経験的に無限に多様な現象を追い求める地理学や歴史学の場合、尽きない興味が心のうちに沸々と湧き出てこない限り、成果は覚束ない。地理学の空間の横の座標軸と、歴史学の時間の縦の座標軸とは、夫々が限りなく広がりをもちながら、相互に交わり合う。時々の交差は実にさまざまであって、竹内さんとの会話もそれに及ぶと、もはや止まるところを知らず、多様にからみ合いながら展開していった。こうした対話を重ねながら、それは千変万化にもつれあいながらすすんでゆき、その都度二人の交わりはより深くなっていった。巨漢の竹内さんと、ひょろ長い私とは、大学のキャンパスで、すぐにお互いを見分けがついて寄りそった。そんなとき、もはや発展段階説とか、地政学とかいった理論が武装して登場することは、若い研究者同士の間でならいざ知らず、すっかりかげをひそめてしまい、両者の間のふれあいも絶妙、一つの着想が思いもかけぬような別の着想へとかりたてたのである。こうした至福のいっときも、もうおとずれることはなくなった。(二〇〇五年末)

                わたなべ きんいち(一橋大学名誉教授)


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