竹内啓一先生追悼集 |
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竹内啓一先生追悼集編集委員会 編集 (2006年)より抜粋 |
写真集…………8 |
高橋伸夫 竹内啓一氏とご同行したミラノとパリ…………82 高橋弘幸 教育者としての竹内啓一先生 -その秘められた情熱…………83 滝波章弘 先生の暖かさ、格好良さ、若々しさ…………85 竹内裕一 竹内啓一先生のこと…………85 竹内裕二 先生とワインを飲みたかった…………86 竹中克行 地理学と地中海世界のはざまで…………86 武谷なおみ 竹内啓一先生の想い出…………87 田代 博 高校地理教科書と竹内先生…………88 多田統一 インタヴュアーとしての竹内啓一先生…………89 立岡裕士 竹内先生を偲んで…………89 立石博高 竹内先生の思い出 -地理学と歴史学…………90 谷川尚哉 竹内啓一先生と御一緒した済州島巡検…………91 田村俊和 竹内先生の生物地理…………91 千葉立也 竹内先生を偲ぶ…………92 堤 研二 竹内啓一先生の思い出…………93 寺阪昭信 竹内啓一さんとの出会いから…………94 戸所 隆 繊細な感性で本質を見抜き大胆に行動された一級の国際人・竹内啓一先生…………94 中島弘二 竹内先生との対話…………95 長嶋俊介 島嶼学の恩人としての竹内啓一先生…………96 長島弘道 竹内さんのこと…………97 中俣 均 セピア色のインクのハガキ…………97 中村喜和 人を集める人 -地中海研究会に関連して…………98 西川 治 お礼とお詫び…………99 西川大二郎 竹内さんとの出会いと別れ -理論と実態調査との狭間で……100 野上正至 最後の著作にかかわって…………101 野澤秀樹 地理思想史研究とKeiichi Takeuchi…………102 野間晴雄 学会巡検と竹内先生…………103 萩原愛一 1970 年の小平ゼミのことなど…………104 A. Buttimer Adieu à Keiichi Takeuchi …………105 原田ひとみ オリーブの木陰に…………106 久武哲也 竹内啓一先生の批判的精神 -私的な思い出-…………107 日野正輝 私にとっての竹内啓一先生像…………108 藤田佳久 竹内先生の訃報を知って…………109 W. Flüchter Erinnerungen an Professor TAKEUCHI Keiichi…………110 帆足 亮 社会地理OBフォーラムと竹内先生からの最後のメール…………112 Uta Hohn Erinnerungen an Takeuchi-sensei…………113 星野 朗 竹内啓一先生を偲ぶ -竹内さんと教科書、地理教育研究会……115 細井将右 『プトレマイオス世界図』について…………116 正井泰夫 竹内啓一さんと本をつくる…………116 松井和久 竹内先生から教わったことへの回帰…………117 松浦千誉 竹内啓一先生との思い出…………118 松原 宏 相模線と竹内先生…………119 松本健志 竹内啓一先生を偲んで…………119 水内俊雄 社会科学としての地理学を唱導され…………120 水谷 剛 竹内啓一教授から受けた地理学教育…………121 源 昌久 「地理思想史研究グループ」と竹内先生…………122 宮川泰夫 地理学の基本と地理学史の先達…………122 宮口侗廸 竹内啓一先生との縁…………123 宮町良広 幻に終わった日英地理学会議と竹内先生…………124 宗竹啓介 竹内啓一先生を偲ぶ…………125 村岡和彦 不良性…………126 森 一広 教職の基本…………127 森川 洋 竹内啓一先生を偲ぶ…………127 森滝健一郎 多面性のなかの一面…………128 守屋以智雄 桁外れな先輩…………129 矢田俊文 学会の2つの危機を救った竹内啓一先生…………130 矢延洋泰 “トスカーナ”の空の下で…………130 山口太郎 竹内先生に東京で教わったこと…………131 山﨑孝史 竹内啓一先生と9 月11日…………132 山田 烈 ウルビーノおよびローマでの日本近世絵画展と竹内先生…………134 山田晴通 「私淑」していた先生…………135 山田雄一 竹内先生を偲んで…………136 山本健兒 励まし続けてくださった竹内先生…………137 山本正三 竹内さんとの談話…………138 吉野正敏 竹内啓一先生を偲ぶ…………139 渡邊金一 地理学と歴史学…………140 渡部千秋 私のラテン人生の導師…………140 竹内マテルダ 夫の最後の日々…………142 沖 周治 シチリアの思い出…………143 年譜 1932~2005…………144 著作目録…………150 あとがき…………175 |
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上田元 1980年代の、ある竹内先生 |
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学部2年の早い時期に,私は大学院に進もうと考え始めていた。院試の課す第2外国語試験の対策も兼ねて,仏語文献を講読できるゼミに入ろうと思い,1983年の年度替わりのころ,竹内先生のお部屋を訪ねた。小平で人文地理学の講義をとらなかった私は,そのときが先生との初対面だったと思う。「環境」を社会(地理)学的に勉強してみたいという私の考えに対して否定的なコメントを頂かなかったのをよいことに,どのようなご研究をなさる先生か僅かばかりも承知しないまま,私は3年になって竹内ゼミの一員となった。英語と仏語のゼミいくつかに参加し始めたが,人間主義地理学やマルクス主義地理学,時間地理学を含め,理論的・一般的な色彩の濃い地理学文献と格闘することになった。輪読ゼミではあったが,レジュメを作って臨むことはむしろ珍しかった。とくに極小人数ゼミには,一回分の訳文を携えて参加する必要があった。その甲斐もなくと言おうか,院試での語学試験の成績は芳しくなかったようで,合格発表時に呼び出されてお話を伺った際,社会地理学と社会調査の試験でどうにか合格点に達したことに加えて,「研究職に就くつもりなら苦労するよ」,そう申し渡された。 |
そうでもしないと研究職にはつけないのだろうと思った。そのころ先生よりいただいた絵葉書には,地理学研究が盛んなイタリアかスペインに留学してはどうかとある。これも私に対する働きかけの一つだったが,私はこれを契機に先生がどこで,どのように学問させようとする人なのかを悟り,同時に自分には無理だと即断した。当時,私の頭には海外研究や留学の文字は皆無で,ご帰国後に出席し始めた伊語ゼミも,文献読解の喜び以上の何かを覚える機会とはならなかった。むしろ,私の興味は並行履修していた社会人類学のゼミで触れたアフリカ社会に向いていた。 まったくの偶然なのだろうが,その私に,先生はいきなりアフリカ研究をしてはどうかと話された。研究の内容や仕方について意見されたわけではなかったが,これが私にとっては最大の働きかけとなった。自らの能力を疑問視していた人間を,なぜかアフリカに行ってみたい,行けるかもしれないという気にさせた。結局,私は日本人としてイギリスに留学してケニア研究をするという,行く先々で説明を求められる決心をした。1988年秋,先生はローマ日本文化会館館長のお仕事で出国,私も同時に海外生活を始め,以降,1992年頭に私が幸運にも研究職に就くまで,ほとんどすれ違いとなった。この間に先生から頂いた書状には,留学先や一橋の先生方のおっしゃることをよく聞いて研究を続けるように,とにかく早く学位を取るように,と記されている。また,私が研究職に応募する際,先生に書いていただいた人物講評(推薦状)には,ご自分の海外滞在が私を「孤立無援」の状態に置いていると説明されている。やはり鈍感な私は,こうした文面を介して初めて,先生が何をお考えなのかを知るに及んだ。 就職後,先生の前でケニア・タンザニア調査の報告を何度か行ったことがあるが,いつだったか,発表中の私に向かって始終笑みを湛えておられるように感じたことがある。なぜなのか気になったが,問うことなく過ごしてしまった。人づての推測だが,あるいはアフリカで地に足の着いた研究を私にさせようとしていたお考えが,かたちになりつつあるとお感じになったからなのかもしれない。私が竹内先生にお伺いしたいことをいかに多く抱えているか,お亡くなりになったいま,遅まきながら痛感し始めている。これから修練を積み敏感になればそれだけ,そうした思いが強まるのに違いない。それらのことを書き残されたものに求め直し,また心の中の先生にぶつけて反応を確かめながら,歩んでいこうと思う。 うえだ げん(東北大学大学院環境科学研究科、 |
大月康弘 国立桜の歩道にて |
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桜の花の下で、何度先生とお遭いしたことだろう。 |
研究会への先生の思い入れは、計り知れないものがおありだった。ローマからご帰国後のあの時期、周到な目配りと、きめ細かな配慮の必要を直々に御示教いただいたことは、今でも万感の感謝とともに思い出す。 |
勝田由美 イタリア語ゼミの思い出 |
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一橋大学に在学していた私がイタリアを研究しようと決めた頃、竹内先生は客員教授として英国シェフイールドに行かれていた。その後帰国してさらにローマの日本文化会館館長としてイタリアに赴任されるまでの2年間、ちょうど修士課程に進学した私は、社会学のゼミに籍をおきながら、竹内先生のイタリア語ゼミに参加することができた。 語学堪能な竹内先生は、大学院では4カ国語程度の文献を読むゼミを、それぞれ並行して隔週で開いているということだった。イタリア語のゼミが常にそこに含まれていたのかどうかはわからないが、その頃の出席者は2~3名で、その少ないメンバーが学期ごとに少しずつ入れ替わった。地理学だけでなく私のように社会学や言語学など他の分野の専攻者もおり、イタリアを研究対象としていたのは同じく社会学専攻の新原道信氏と私だけだった。先生が用意されたコピーを毎回5~6頁のペースで読んでいったが、私は独学で文法の学習を終えた程度で、とにかく予習がつらかった。最初は地理学関係の本からイタリアの州制度や少数言語の問題をとりあげた部分を読んだように思う。それは地図や統計が豊富で文章もさほど難しくなかったが、3回目ぐらいからは南部問題に関するアンソロジーをテキストに、いくつかの章を読んだ。このときにヴィッラリやソンニーノなどを初めて読んだはずだが、ただ予習が苦しかったという以外には、何を読んだのかもろくに覚えていない。ひとつだけ記憶にあるのは、ニチェーフォロを読んだことである。「実証主義者」ニチェーフォロの、南部社会の後進性を北部人・南部人の骨格の違いによって説明しようとする議論自体も当時の私には驚きだったが、そのとき竹内先生は、「彼の南部主義は逆説的なのだ」という含みのあるコメントをされた。私にはその意味がわからなかった。その後も含めて竹内先生のゼミに参加したあいだには何度か似たような経験があったが、先生ご自身も多くを語られなかったし、私もそれ以上尋ねることはしなかった。今にして思えば残念なことである。 竹内先生がローマに赴任された3年間のうち、2年間は私も留学生としてイタリアに滞在する機会を得た。竹内先生やご家族には日本でも学生時代からほんとうにお世話になったが、イタリアでもことあるごとにお気遣いいただいた。 帰国された竹内先生が駒澤大学に移られるまでの2年間、私は、すでにオーバードクターになっていたが、再び指導を受ける機会に恵まれた。テキストは、南部問題に関する |
歴史的文章のアンソロジー(R. Villari (a cura di), Il Sud nella storia d’Italia, Bari , Laterza, 1988)である。参加者は、姜玉楚さんと藤岡寛己と私の3人で、私たちの方からお願いしてゼミを開いていただいた。上記の本から読むべき章を先生に選んでいただき、ヴィッラリ、ソンニーノ、フランケッティ、フォルトゥナート、ニッティ、デ・ヴィーティ・デ・マルコ、ストゥルツォ、サルヴェーミニ、ドルソ、グラムシ、ロッシ・ドーリア、サラチェーノの文章を読んだ。竹内先生はご多忙にもかかわらず、隔週のゼミに欠かさずおつきあいくださった。ちょうどこれらを読み終えた頃に姜さんは帰国され、その後は先生のご示唆で、私と藤岡は、北部を中心とするイタリアの工業化問題に関するアンソロジー(L. Cafagna (a cura di), Il Nord nella storia d’Italia, Bari, Laterza, 1962)からいくつかの章を読むことができた。テキストには辞書にない単語や、当時の経済的・社会的背景を理解していないとわからない箇所がたくさんあり、竹内先生には教えていただくことばかりだった。先生は読解に必要な解説以上のことをほとんど語らず、ご自分の考えはときどきぽつりと言われるだけだった。今ではその簡潔な言葉のさらに断片しか思い出すことができない。 何年かたって、私と藤岡は、ゼミで読んだ南部問題論を翻訳したいと先生に相談した。先生は、出版社がひきうけないだろうと難しい顔をされたが、その後、先のテキストからどの章を訳したらよいかとおききしたときには「ゼミで読んだ章を順番に訳していけばよい」とすぐにお返事をくださった。いくつかの章については「近年原著が再版された記憶があるので版権を調べておく」と書き添えてあり、「イタリア版古典的ケインズ主義者」サラチェーノについては「今後評価の見直しが必要だろう」と結ばれていた。私は、職場の紀要に少しずつ翻訳を載せていくことにした。昔読んだ文章とはいえ理解も訳も一筋縄ではいかず、結局は竹内先生に多くの点で教えを乞うた。最初に訳したヴィッラリの章の抜刷をお渡ししたとき、先生はまんざらでもないといった表情で「ご苦労さんでした」と言われた。今年の2月末、ソンニーノの抜刷をお送りしたときは、いつもはあまり時間をおかずにお返事をくださる先生から何の音沙汰もなく、少しだけ気になっていた。その頃にはもう入院されていたのだった。 今は、大きすぎる宿題をかかえて途方にくれている子供のような気持ちである。何年もかかるだろうが、テキストの翻訳は続けていきたい。竹内先生から学んだはずのものと、学べるはずであったものを確認する作業としても。 かつたゆみ(工学院大学工学部、一橋大学1988年卒業) |
加藤博 一橋大学地中海研究会での竹内啓一先生の思い出 |
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竹内啓一先生は一橋大学地中海研究会における、発足以来のリーダーであり、私にとって、竹内先生は、一橋大学地中海研究会そのものであった。それは、私の研究歴において、この研究会が実に大きな意味を持ったからであるとともに、私の竹内先生との関係が、ほぼこの研究会を介してだけのものだったからである。しかし、その経験だけで、竹内先生の大きさを知るのに十分であった。 一橋大学地中海研究会の設立の経緯については、竹内先生とともにこの研究会を立ち上げた渡辺金一先生と中村喜和先生が語られるであろう。そこで、ここでは述べないが、私は、この1973年に発足した研究会において、長らく最年少者であった。参加させていただいたきっかけは、私の修士論文『中世エジプト貨幣史』の審査員の一人に渡辺金一先生がなられたことであった。一橋大学は小さな大学なので、イスラム史関係の論文審査に、ビザンツ学の大家にご出動いただいたということである。実は、それまで、講義を受けていたものの、渡辺先生との個人的な面識はまったくなかった。その渡辺先生が、私の論文を読まれて、発足間もない地中海研究会への参加を勧めてくださったのである。それは、1974年のことであったと思う。その後30年以上もの長きにわたり、渡辺先生には公私ともどもお世話になっている。つまり、地中海研究会は、渡辺先生、竹内先生と私との間の縁を取り持ってくれたということになる。 このこと一つをとっても、私が地中海研究会に対していかに感謝しているかがわかろうというものである。ともかく、今考えても、そうそうたるメンバーで、私より一回りどころか、二回り近くも歳嵩の「えらい先生」がほとんどであった。また、研究会の方針は、メンバーの数を増やさず、専攻の違いや、地中海の北と南、西と東の研究対象地域の違いを越えて、気兼ねなく、自由に、そして楽しく意見交換を行う場を設定しようというものであった。そのため、議論の後の飲食会も、研究会の一部であった。つまり、「大人」の研究会であったのである。それが、ほぼ毎月、それもほとんど全員が出席して、継続していた。慌しい現在からみると、信じがたいことである。私は毎回、欠かさず出席していた。しかし、最初の数年は、ただ黙って座っているだけで、一言も言葉を発しないこともあった。というか、発せられなかった。そのことをいうと、古参のメンバーは、「そんなことはない。お前は初めからうるさかった」といわれるが、これは本当である。本人がそういっているのだから間違いない。そもそも、古参のメンバーは、最初の数年において、私などまったく眼中になく、置物ぐらいに思っていたのではないかと、私はひそかに思っている。 それはともかく、研究会に参加してすぐに分かったのは |
、地中海研究会が竹内先生を中心にまわっているということである。今、その難しさをこの身で感じているが、ひとを取りまとめるだけでも大変なのに、そこから継続した立派な成果を生み出すのは並大抵のことではない。竹内先生は、当時助手であった栗原尚子さんの助けを得て、研究テーマの設定のほか、事務全般にわたって、研究会を統括しておられた。そこで、ふんだんに活用されたのが、竹内先生の国内、海外における各方面での多彩な人脈であった。とりわけ、海外調査で、その能力は際立っていたという。残念なことに、私自身は、竹内先生と調査をともにした経験がない。しかし、近年、三度にわたって、地中海周辺諸国で、地中海研究会主催の国際ワークショップをもった経験から、さもありなんと思う。この三度の国際ワークショップにおいて、準備段階からワークショップ当日の報告まで、その中心には竹内先生がおられたからである。海外調査をともにされた古参の研究会メンバーは皆、口をそろえて、竹内先生を「隊長」と呼んでいる。それは、われわれ若い世代においても変わらない。竹内先生は、われわれの「隊長」であった。 一橋大学地中海研究会は、今年の2005年で、33年目を迎えた。その後半は、偶然の重なりから、私が研究代表としてやってきた。メンバーもまったく変わった。一橋大学地中海研究会と名乗るが、一橋大学スタッフは、まったくの少数である。研究会の雰囲気も変わった。しかし、2、3年ごとに研究報告書として刊行される『地中海論集』は、邦文から欧文の雑誌となり、海外からの問い合わせが来るほどに認知されるようになった。それもこれも、自由な雰囲気で、気兼ねない意見交換を楽しみながらも、「やることはやる」地中海研究会の伝統を引き継いでいるからである。しかし、それにしても、時代は移り、研究環境も、研究者の気質も大きく変化した。地中海研究会もその当初の役割を終え、もうそろそろ退け時かなと思うこともある。しかし、古参のメンバーで亡くなられた方々がかつておっしゃったこと、行動したことを思い出すと、昔とは違った意味で、このようなネットワーク型の「大人」の研究会こそ、今必要とされているのかもしれないとも思う。現在、地中海研究会は「地中海の島嶼」についての海外調査を実施しつつある。その指針の一つとなっているのは、昨年9月におけるイタリアのヴェネツィアでの地中海研究会主催の国際ワークショップと、昨年11月における東京・国立での地中海研究会・定例会で竹内先生から戴いたアイデアである。この二つで、竹内先生は発表、報告された。この海外調査を竹内先生とともに終えられなかったことは、まことに残念である。竹内先生、これまで、いろいろとありがとうございました。 |
栗原尚子 図書館から東校舎へ |
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1968年4月、社会学部の研究室助手として勤めるようになってから14年間、竹内先生の研究・教育・研究会活動などの「仕事」に身近に接してきました。生きることにおいて何にも増して「仕事」を最優先し、その徹底した完全主義振りにはいつも頭の下がる思いがしていました。 |
有名な原書で欧語の地理学関係の文献を読むゼミは、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・スペイン語のゼミが開かれ、正規のカリキュラムが終わってから午後5時から始まりました。ゼミテンは、「ここじゃ、英語は外国語のうちに入らないんだものなーーー」とぼやいておりましたが。この開放空間はゼミテンにとっては解放空間であり、よく出入りするゼミテンを先生は温かく見守っていらっしゃったということでしょうか。 |
斎藤寛海 竹内啓一先生の思い出 |
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竹内啓一先生の第一印象は、にこやかではないが親切な人、であった。最初にお会いしたのは一八年くらい前のこと。(故)清水廣一郎先生のお世話で、一橋大学とは何の関係もない私も、長い間希望していたこの大学の地中海研究会への参加を許していただいたが、その例会に最初に参加した日のことである。大学本館のある構内とは道路を隔てて反対側にある構内を、連絡してもらった部屋はどこだろうかと、あちこち見回しながら歩いていたとき、向こうから髭を生やした大柄な人が歩いてきた。私のことをじっと見た後、「研究会に出席するのですか」というようなことを聞かれ、「ええ、そうです」と答えると、「こういけば部屋にいけます」と教えてくださった。にこやかではないが親切な人だなあ、それにしても何で研究会に来た者だと分かったのだろう、きょろきょろしながら人通りのない場所を歩いていたからだろうか、と思いながらその部屋に入った。それからの記憶ははっきりしていないが、やがてその人も部屋に入ってきて、それが竹内先生という地理学者だということを、誰かから教えてもらったような気がする。かなり強かったこの第一印象は、その後何回もお会いしているうちに、にこやかではないという部分は薄れ、親切なという部分が濃くなった。そしてさらに、優しい人、人の置かれた立場を鋭く察知し何食わぬ顔でそれに温かく配慮してくれる人、という印象に変わった。
その後何年かして、研究会の機関誌にイタリア語のマニュスクリプト史料の転写とそれについての簡単な解説を掲載してもらうべく、その原稿を提出した。締め切りを少々過ぎていたこともあり、ネイティヴ・スピーカーに校閲してもらうということには思い至らずに、書き終わった原稿をそのまま提出し、ほっとしていたときのことである。突然、竹内先生から自宅に電話をいただいた。「あなたが作文した部分のイタリア語にはおかしいところがあるので、直してみたが、それでいいか確認して欲しい」といわれ、一時間近くかかったような記憶があるが、修正してくださった文章を逐一読みながら、丁寧な確認作業をしてくださった。おそらくイタリア生まれの奥様も目を通してくださったのではないかと思われるが、そのことについて先生は何もおっしゃらなかった。そのときは自分の至らなさにすっかり恐縮してしまったが、時間がたつにつれて感謝の気持ちが心の底から湧いてきた。学問には妥協のない厳しさを求める一方で、ご多忙な日々だったと思われるにもかかわらず、未熟な人間に対して実に丁寧に指導をしてくださる、しかもご自分の親切さが相手に気づかれるのを恐れるかのように、何食わぬ顔をしてさっとしてくださるのである。尊敬するというだけではたりない、お人柄に魅せられた気持ちになった。失礼を承知でいえば、惚れてしまった、という表現がぴったりかも知れない。
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一昨年の二〇〇四年九月、地中海研究会がヴェネツィアで外国人研究者たちを交えた研究会を開催し、竹内先生も参加された。三日目は全員で昼はヴェネツィア近隣の島々を見学し、夜はサンタ・マルゲリータ広場のレストランで食事をした。広場に置かれた屋外のテーブルで懇親会を開いたのである。いかにもこの研究会らしい、またイタリアらしい、まったく気兼ねのない、ひたすら楽しい食事会であった。そこでは食べること、飲むこと、そして隣席の人たちとの会話に没頭したので、それ以外のことについての記憶は定かでない。最長老の竹内先生が、最初か最後の挨拶をされたような気がするが、それすらはっきりしない。しかし、お酒を召し上がり、日焼けに加えてすっかり血色のよくなられた先生が、誰彼となくお相手をしながら実に楽しそうに歓談されていたお姿は、記憶の片隅に残っている。夜も更けてからホテルに戻り、その狭いロビーで、先生と私ともう一人の人と三人で一時間くらいだろうか、お話をした。石川県小松市ですごした中学、高校時代の思い出や、研究者になる道を選んだことなどを懐かしそうに話されたが、このようなお話を聞くのは初めてであり、心を開いてくださったことがとても嬉しかった。さらに、このとき私がパソコン音痴であることを理解された先生は、私を先生のお部屋まで連れて行かれ、パソコンによる情報収集の方法、とりわけイタリアの学術情報の収集方法を、先生のパソコンを使って丁寧に教えてくださった。先生の人なつこい側面に接することができてとても嬉しかったが、いつもの先生とはわずかに違うような感じがし、かすかな不安が湧き上がってきた。しかし、イタリア人の友人が驚くほど先生は元気なご様子だったから、単なる杞憂だろうと思い、そのことは忘れるともなくいつのまにか忘れてしまった。 一昨年十一月、先生は研究会でご報告をされたが、これがお会いする最後の機会となった。いつもの通り元気にお話になり、体調のご不調は感じられなかったが、今になって思うと、研究会の皆さんに先生流のお別れの挨拶をなさったのかも知れない。先生から昨年いただいた年賀状には、研究会が科研費で行うイタリア関係の調査は、あなたがたが主体になってやってください、ということを書いてこられた。それは先生のご指導のもとに行う計画だったから、このことは計画の変更を意味する。これを書かれたのは、かなり深刻なご病気になられたからではないかと思い、先の不安を思い出して漠然と暗い気持ちになった。入院されたとの知らせをまもなく受けたが、そのときにはもはやそれほど驚くことはなかった。この年賀状は、私に対する別れのご挨拶だったように思う。 さいとう ひろみ(信州大学教育学部)
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竹中克行 地理学と地中海世界のはざまで |
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日本の内外の地理学はもとより他分野でも幅広い知己をおもちであった竹内先生について、他の方々が語られないであろう何かを記すことができるとすれば、それは地理学と地中海地域の研究という先生と私の間にあった二つの接点について、私のささやかな個人的経験を通じて語ることをおいてほかにないであろう。
私が竹内先生と初めて個人的にお話する機会を得たのは、1995年に外務省のある外郭団体の仕事に私をお誘いくださったときだったと記憶している。外国の地理教科書の日本に関する記述について提言を行うという任務を前に、私は正直いって自分の力量不足ゆえの不安を抱く一方で、この仕事がナショナリスト的宣伝の謗りを受ける結果になりはしないかというためらいを感じた。私は、研究者としてまだ駆け出しの段階にあった自分に声をかけてくださった先生の勇気に今でも感謝しているが、先生ご自身も私以上に深い自省とともにこの仕事に取り組まれたことを後に知り、少しほっとした気分になった。ともあれ、出版社から突然仕事の電話がかかってきたかと思うと、しばらくして「あのときの犯人は僕です」と悪びれもせずに仰る先生の大胆さとおおらかさには、その後もたびたび驚かされることになる。 1998年に愛知県立大学に職を得た直後から、一橋大学地中海研究会のメンバーに加えてもらうことになった私は、この研究会の場で竹内先生とたびたびお会いするようになった。まだ若かりし頃の竹内先生が大学の同僚の方々とともに立ち上げられた地中海研究会において、地理学者はむしろ少数派ともいうべき存在だった。私が参加したときには栗原尚子さん、故磯部啓三さんがいらしたくらいのものである。研究会は、学問領域を異にしつつも地中海というフィールドで結ばれた研究者たちが自由に発信する学際的な交流の場として発足し、竹内先生亡きあとも、研究会の発展のために一橋大学の加藤博さん、大月康弘さんらを中心に私たちは日々努力している。どのような分野の報告に対しても積極的に質問や意見を投げかけられる竹内先生のご活躍ぶりからは、地理学という出発点を大事にしつつも隣接分野との間で新しい問題関心を発掘することの重要性を、私なりに学ばせていただいたと思っている。 竹内先生とは、地中海研究会の国際ワークショップで何度かごいっしょさせていただいた。地図もガイドブックもなしに旅に出る人ばかりという研究会にあって、学生時代にはけっして地理少年ではなかったらしい先生は、いつの間にか地 |
形図や資料を用意してエクスカーションにせっせと出かけるという、よきフィールドワーカーぶりを発揮しておられた。先生のお仕事のスタイルは、現地調査で得たデータを論文の中にぶちまけるものではなかったが、現地の人々との対話を惜しまない丹念なフィールド観察ぶりにおいては、けっして人後に落ちるものではなかった。イタリア語、カタルーニャ語、スペイン語など、異なる言語を母語とする人々が集まるワークショップの場でも、先生は、さまざまな地域の常識や人の心を知るがゆえに、会を成功に導くためにさりげない助言をくださった。長く複雑な歴史のしがらみを負った地中海地域の研究にスペインを足場に取り組んでいる私にとって、竹内先生がお書きになったものはいうに及ばず、対象に沈潜するための人付き合いの方法という意味でも教えられたことは多い。 今から2年ほど前のことになろうか。ある出版社から地中海ヨーロッパの地理に関する総合的書物の編者を仰せつかった私は、地中海とその島嶼における交流と生業をテーマとする原稿の執筆を竹内先生にお願いした。それに対して先生は、同様のテーマで30年前に原稿を書いたときから少しも進歩していないというご謙遜とともに、いつくたばるかわからない者はできるあてのない仕事を引き受けるべきではないと自戒している、との丁寧な断りのお返事をくださった。それは、私たち若い世代の研究者にとって、自分たちで新しい学問の道を開きなさいという励ましの言葉でもあったが、まさかお元気だった先生がそのときの言葉通りになってしまわれようとは想像だにしなかった。2004年秋にヴェネツィアで開かれた国際ワークショップの巡検で、イタリア人の案内役の通訳をしながら疲れた様子もなく一日中歩き回っておられた先生の姿、食事のときにときたま自慢話も交えながら、離れた席の会話にも飛び込んでらっしゃる無邪気な姿、それらすべてが私の脳裏に焼きついたままになっている。 地理学と地中海世界のはざまで竹内先生の両方の側面にふれる幸運に恵まれた者として、先生への敬愛の念は深まるばかりである。研究者として、そしてひとりの人間としてのスケールと寛容さを教えてくださった竹内先生、どうか安らかにおやすみください。 たけなか かつゆき(愛知県立大学) |
立石博高 竹内先生の思い出ー地理学と歴史学 |
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竹内啓一先生にはじめてお目にかかったのは、いまから20年前のことであった。都立大学の助手を勤めた後、京都の同志社大学で教鞭をとり始めたものの、東京を離れていまだ関西での学問的刺激も受けることができず、多少とも焦っていたころである。渡邊金一先生や竹内先生らが中心になって立ち上げられた地中海研究会では、もう少し若手の研究者を加えて地中海研究の将来的継承を図られたいということであったと思う。私は都立大学助手時代にお世話になった故清水廣一郎先生のご紹介を受けて、たしか暮れの研究会(当時は地理学研究室が開催場所になっていたと思う)に参加させていただき、大変に緊張したことを覚えている。
このとき私は、啓蒙期スペインの大西洋交易の特徴について拙い報告をさせていただいたが、先生方の鋭い質問にうまく答えられず、脇の下にぐっしょりとかいた汗が今でも皮膚感覚として残っている。とくにイタリア地理学の先生としてお名前は存じ上げていた竹内先生から、かなり詳しくスペインのことを聞かれて、その博学と知的鋭利さにいたく感銘したのであった。あのときお茶くみのようなことを甲斐甲斐しくしていたのが加藤博さんだったことをなつかしく思い出す。 さて、爾来、竹内先生とは地中海研究会の例会やワークショップでお付き合いをさせていただいたが、こうした会合には和やかな飲み会がつきもので、ずいぶんといろいろな話をさせていただいた。そうしたとき、歴史家として文献研究にたよりがちな私がつねに反省させられたのは、出来事が繰り |
広げられる空間認識の必要性ということであった。いったい、マドリードとバルセローナは、またマドリードとセビーリャはどのくらいの距離があり、鉄道やモータリゼーションが発達していない時代に人びとの移動にはどのくらいの日数がかかったのか。こうした基本的なことがらを見落としがちな私は、竹内先生の雑談を交えての鋭い質問にたじたじとなっていたのであった。
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中村善和 人を集める人‐地中海研究会に関連して‐ |
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私は一橋大学社会学部の教授会で、30年ほど竹内さんの同僚でありました。年齢でいえば、たしか私のほうがちょっと年かさでありますが―早生まれと遅生まれの差くらい―私は回り道をしましたので、社会学部に採用されたのは、竹内さんのほうが早かったのです。それ以来、私は竹内さんを人生の先輩のように感じてきました。 |
助手が控えていて(そのポストを占めていたのは栗原尚子さんで、彼女はその後お茶の水女子大の先生になりました)、いつでもおいしいコーヒーの振る舞いにあずかることができたためでもあります。もありますが、専属の助手が控えていて(そのポストを占めていたのは栗原尚子さんで、彼女はその後お茶の水女子大の先生になりました)、いつでもおいしいコーヒーの振る舞いにあずかることができたためでもあります。 今から数えると40年間にもわたる付き合いで、思い出は数限りなくあるのですが、この場では、竹内さんのことで、忘れられないエピソードを一つ二つ申し上げたいと思います。 地中海研究会が文部省の海外調査費の交付を受け、メンバー全員がスペイン、イタリア、ギリシャなどへ手分けして出かけたことがありました。初回は1977年のことで、その前年には渡辺先生と竹内さんが予備調査に行きました。私はロシアとの関係でギリシャ行きを選びました。渡辺先生や松木さんと一緒にエーゲ海に浮かぶナクソスという島へ出かけて、島の中央に位置するフィロテ村で3か月ほど暮らしたのです。竹内さんは総括責任者という立場だったでしょうか、ギリシャへも巡回してきて、1週間か10日くらいアテネやフィロテ村で共同生活をしました。そのとき竹内さんから助言を受けたのは、フィールドワークの進め方だけではありませんでした。食事どきになると、どこのレストランのどういう料理がいいか、竹内さんの提案どおりにするとまず間違いありませんでした。むろん、竹内さんは長年の経験で地中海料理に慣れていた、という事情もありしょう。町の通りを歩いていても、どの方向からどんな匂いが流れてくるかで、その先にどんなレストランがあるか、竹内さんには見当がついていたようであります。 それから、もう一つ。研究会のような集まりのときはいうまでもありませんが、立食パーティーのような場合、竹内さんのまわりにはいつも人が集まりました。それは、故人がさまざまな言葉ができたためばかりではありません。竹内さんは非常に視野が広くて頭の柔軟な人でしたから、どんな人とも話がはずみ、談論風発してまわりに人が集まってきた、ということです。 こういう友人を失って、私は非常に寂しい思いをしているところであります。 なかむら よしかず(一橋大学名誉教授) |
渡辺金一 地理学と歴史学 |
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今年は一月末から二月初めにかけて、一週間程ニュージーランドに出掛けた。南半球最初の旅行である。腰痛のため、はからずも家内と娘の荷物の番人を私がおおせつかることになった。我慢が肝心と、トレッキングから帰って来る二人を何時間もかけて待つわけである。 ニュージーランドでは空港を出たとたん、「すし」の広告が目にとびこむ。加えて、中国、韓国、ヴェトナム、タイなどのレストランが軒をつらねる。東南アジアの出身者がひらくお店である。それなりに結構味わえるのだが、そこに見当たらないのがやはりそばや。帰国して飛びこんだのが、上野の池之端の蓮玉庵。墨痕鮮やか表具、「やがて(あるいは「今に」?)見よ、棒くらわせん蕎麦の花」をかかげるこの蕎麦屋を、竹内さんに紹介しなかったのが残念である。大みそかになるとよく出掛けてそこで年越しそばを祝ったものである。 外国旅行では竹内さんは、食事相手の私にいつも暖かい配慮をたやさず、私のためには店の絶品をすすめ、自分にはセコンドランクを注文し、私の顔をのぞき込みながら、私の満足度をたしかめるのだった。かれの胃袋は並外れて大きく、大皿をいくつもペロリと平らげ、料理にマッチしたアルコール類を、あたかも鯨よろしく、ゴクゴクと飲み干すのである。それをみて、グルメたるもの、そうでないとつとまらない、と思いながら、それに何度も追いつこうとしたあげく、身の程を知って断念した。ただそれが果たして健康に良かったかどうかは別問題で、竹内さんはどうも太りすぎていたように見うけられた。 |
食い道楽と学問はどうも一脈相通ずるものを持っているようで、学問一般、ことに経験的に無限に多様な現象を追い求める地理学や歴史学の場合、尽きない興味が心のうちに沸々と湧き出てこない限り、成果は覚束ない。地理学の空間の横の座標軸と、歴史学の時間の縦の座標軸とは、夫々が限りなく広がりをもちながら、相互に交わり合う。時々の交差は実にさまざまであって、竹内さんとの会話もそれに及ぶと、もはや止まるところを知らず、多様にからみ合いながら展開していった。こうした対話を重ねながら、それは千変万化にもつれあいながらすすんでゆき、その都度二人の交わりはより深くなっていった。巨漢の竹内さんと、ひょろ長い私とは、大学のキャンパスで、すぐにお互いを見分けがついて寄りそった。そんなとき、もはや発展段階説とか、地政学とかいった理論が武装して登場することは、若い研究者同士の間でならいざ知らず、すっかりかげをひそめてしまい、両者の間のふれあいも絶妙、一つの着想が思いもかけぬような別の着想へとかりたてたのである。こうした至福のいっときも、もうおとずれることはなくなった。(二〇〇五年末)
わたなべ きんいち(一橋大学名誉教授) |