1924年3月13日 
1930年4月 
1930年9月 …
1936年3月 
1936年4月 

1941年3月 
1942年4月 

1943年9月 
1944年 
1945年3月 
1945年4月 



1947年 

1948年3月 
1948年4月 
1950年3月 
1950年10月 
1951年4月 
1953年9月 
1954年3月 
1954年4月 
1954年12月 
1957年4月 
1960年1月 
1964年2月 
1965年4月 
1969年4月〜9月 
1970年4月〜9月 
1994年3月 
2003年2月3日 …


備考




父、鴨澤恒造、母、里見の4男として東京市本郷区(現文京区)に生まれる。父は退役陸軍中佐
埼玉県北足立郡浦和町立浦和小学校(現常盤小学校)に入学。
埼玉県立埼玉女子師範学校付属小学校に転校。
同校卒業。
埼玉県立浦和中学校(旧制)(現県立浦和高等学校)入学。在学中しばしば気管支喘息の発作に苦しむ。3年生頃から地理学に対する興味を深め、将来、関連する職業に就きたいと決意。周辺は生活難を憂慮。
同校卒業。
国立浦和高等学校(旧制)理科乙類入学。本当は文科系の京都大学の地理学科に進学するため、文科に入りたかったが、家計の都合上、東大(理科系)で諦めることにし、理科系に入学した。
この頃より宿痾気管支喘息悪化、留年。
戦時下の学と勤労動員により、王子志茂町の利権圧延工場に通勤。
同校卒業。
東京大学理学部地理学科入学。同時に入学したのは7名であったが、そのうち戦後の混乱を乗り切って無事に卒業できたのは3名にすぎなかった。宿痾の発作と経済的な困難に襲われ卒業できそうになかったが、単位制施行以前だったため奇跡的に卒業可能となる。入学後は援農動員で群馬県勢多郡荒砥村(現前橋市内)に1ヶ月ほど逗留、麦刈りや田植えを経験、振舞い酒に酔う。
6月から翌年3月まで都立日本橋高等学校(新制)に非常勤講師として勤務。期末試験でカンニングを摘発し、悩む。
東京大学理学部地理学科卒業
農林省統計調査部作物報告課勤務。宿痾のため出欠常ならず。
同退職。
永井荘吾、げん次女、永井久代と結婚(失業、病臥中に)。
東京大学理学部大学院(旧制)入学、経済地理学専攻。
法政大学文学部非常勤講師。
東京大学理学部大学院(旧制)退学。
法政大学文学部専任講師。
長女誕生。
法政大学文学部助教授。
次女誕生。この頃より徐々に気管支喘息軽快。
長男誕生。
法政大学文学部教授。
法政大学教職員組合副委員長(病気により辞任)
法政大学文学部長(病気により辞任)。
法政大学定年退職。
胆のう癌のため逝去

・東京大学、一橋大学、北海道教育大学、御茶の水女子大学、立教大学、明治大学の
 非常勤講師を歴任。
・日本地理学会常任委員(1期)・評議員、経済地理学会評議委員、地理教育研究会委員。
・埼玉県社会経済総合調査理事(畑県政時代前半)。